8月8日 聖書から見た自然の不自然(ひねくれ者のための聖書講座⑱)

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8月8日     聖書から見た自然の不自然(ひねくれ者のための聖書講座⑱)

 人は空を自由に飛ぶ鳥を見て、「空を飛べるなら」「翼をください」と歌います。童話の中の狼や狐なら、もしかしたら空を飛ぶ夢を語るかも知れません。翼が欲しいと願うかも知れません。そう言えば、たしかイソップ童話にも亀が庭の鳥が加えた棒の真ん中を加えて飛ぶ話がありました。でも、本物の亀が空を飛びたいとは思わないでしょう。
 動物は自分のプログラムに対して忠実なだけです。従って彼らの選択は別に「善」でも「悪」でもありません。ところが、人間のプログラムはアダムの契約違反によって一部が壊れてしまったのです。これを聖書では「罪」と言っています。人間の「罪」は自然界全体にも影響を及ぼし、「自然」を言わば「不自然」なかたちに変えてしまいました。私は、初めに神が創造された「非常に良かった世界」を「自然」と呼ぶなら、アダムの契約違反による罪の影響を受けて「呪われた世界」は「不自然な自然」と表現するべきだと主張しています。人間は善悪を知りました。そして、神から離れてしまいました。善を善、悪を悪と知りながら、善から悪へと流れていく傾向をもったのです。(創世記3:17~24)

 聖書を除くあらゆる哲学や思想や宗教の自然観では、「罪」の結果であるさまざまな災いや病気、そして死ぬことさえも「自然」の摂理として受け入れるものが多いのですが、私は、死ぬこともあるゆる災いも、神の積極的に作られたプログラムではないという意味で「不自然な自然」と表現するのがより正確だと考えているのです。
 土地は、アダムの契約違犯によって呪われてしまいました。そうでなければ、人類はもっと容易に作物を収穫することが出来たでしょう。気候の心配も雑草や害虫の予防や駆除も必要なかったのです。エデンの園では肉食もなかったことでしょう。
 確かに神さまの作られた自然の秩序はすばらしく、たとえ、罪の影響を受けた不自然なものであったとしても、多くの恵みをもたらし、その中には十字架と復活の数多くの美しいモデルがあります。そうであったとしても、私たちが素晴らしい大自然と呼んでいる世界は、ずいぶんと素晴らしさを損なわれた「壊れた自然」なのです。

 日本人は、情緒的な国民性を持っています。桜が散ったり、枯れ葉が舞うのを見て、自分のいのちや人生の終わりを重ね合わせたりすることも、一般的な感覚として受け入れられています。豪雨や地震や津波などの自然災害があっても、多くの場合、怒り狂うよりは天災は仕方がないと受け入れてしまうのです。しかし、こうした自然災害は、神の天地創造の際のプログラムにはなかったものです。厳密に言えば「不自然災害」なのです。罪の影響で、自然のサイクルは狂ってしまったのです。憐れみ豊かな神は、その狂いを恵みによって微調整してくださっているわけです。それで、「自然というのは、多くの恵ももたらすが、時に恐ろしいものだ」という程度におさまっているのです。そんなことも知らずに、人は風の神さまや水の神さまを奉っては拝むわけです。馬鹿らしい限りです。
 いろいろお話しましたが、別に聖書的な知識がなくても、自然界における人間と他の生物の関係を正しく相対化することが出来れば、人間だけが大きくはみ出た「特異な存在」であることに気づくのではないでしょうか。その発見には大した知恵はいらないと思うのですが、みなさんはそう思われませんか。人間は「自然」の摂理からはみ出た「不自然」な存在じゃないですか。
人間だけが、衣服を身につけています。人間だけが、仲間を殺し、子どもを殺し、中絶し、自殺や一家心中さえします。人間だけが、火や道具を使い、文字を読みかきし、歴史を伝達し、貨幣を用います。そして、人間だけが、仏や神々を拝みます。
 人類の営みは、象やキリンや鯨や猫とは、大いに異なっています。遺伝子的にはほとんど同じと言われるゴリラやチンパンジーとも全然違っています。自然の中には、進化論という仮説が生み出され、それを信じたくなるような条件がいくつもあります。なぜなら、そのような紛らわしさを神はあえてトラップとして設けられたのだと私は考えています。時々、ゴリラみたいなオバサンやチンパンジーみたいな子どもを見かけますが、彼らもまた神のかたちに作られているのだと私は信じていますが、みなさんはどうですか。その「不自然」の極みである人間が、二言めには「自然」「自然」というのです。その造り主であるところの神を排除して・・・・・。

 「空の鳥や野の花を見なさい」と語られたイエスのメッセージは非常にシンプルですが、強烈にインパクトがあります。なぜなら、イエスのメッセージはとても「自然」だからです。この「自然」さは、理に叶っている、無理がないという意味です。
 イエスは、「罪の影響下にあったとしても、空の鳥は日々神が養い、野の花は神が装っておられる。それなのに人はなぜ、父である神を忘れ、自らの存在を軽く見なし、その尊厳を傷つけているのか」と言っておられるのです。

 また、旧約時代の預言者イザヤはこう言っています。
 「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。『子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主をろばはその持ち主の飼い葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。』」(イザヤ1:2~3)
 家畜でさえ飼い主を知っているのに、子どもであるあなたがたが、どうして親である神を忘れたままでいられるのかという嘆きのメッセージである。

 少し話題が変わりますが、少し前にブログに書いた猿の話をします。
 京都大学などの国際研究グループは、西アフリカのギニアで野生のチンパンジーの数十頭の群れを30年余りにわたって観察しているそうです。この群れでは、これまでに3頭の幼いチンパンジーが死んだことが確認されているのですが、母親は2歳半の子の死がいをミイラの状態になるまで27日以上背負って運び続け、ハエを追い払ったり、毛づくろいをしたりしていました。また、同じ母親のチンパンジーは、1歳の子が死んだ際は死がいを68日間肌身離さず運び続け、同じ群れの別の母親も2歳半の子が死んだ際、19日間、同じ行動をとっていたという記録もあります。この群れでは文化的な伝統として、幼い子どもが死んだときに固有の行動をしているとみられっています。
 
 京都大学霊長類研究所は、「ヒトが死を悼み、弔うようになった起源が読み取れるのではないか」また「非常にまれで、しかも死を特別に扱うような行動」とコメントしていたのですが、これを聞いて不謹慎かも知れないのですが、正直ちょっと笑ってしまいました。これは「猿が人間のような感情を持って行動した」のではなく、「人間の弔いに関わる宗教心が猿レベルだ」ということを示していると思います。「進化論」というのは、己を猿レベルに貶める仮説です。猿と人間の外見を似せて作った設計者の神さまとしては、「猿でいいのなら、猿でいろよ」というのが答えではないでしょうか。「無実の猿」よりは、「贖われる罪人」であることを選んだ方が得策だと私は思うのですが、いかがでしょうか。
 猿は本能のプログラムの中で、失った子どもへの愛着を示すかも知れませんが、自分の生き方に迷ったり、アイデンティティーを求め、自分探しの旅をするためジャングルを出たりしません。
神のまなざしを忘れ去った人間は、人のまなざしの承認を求めて彷徨うことになったのです。
 人間が犯した罪の影響は決して、個人の努力で取り返しがつくような簡単なものではないと聖書は伝えています。それは全人類の罪の累積というよりは、たったひとりの人アダムの契約違反に集約されています。同時に、贖いもまたひとりの人キリストに寄りかかっているのだというのが、罪の影響とその解決に関するパウロのメッセージの中心です。(ローマ5:17~19)
 契約違反を犯したアダムとエバの記事を読んで、連帯責任を感じることなどあり得ません。人が自分の罪を感じるのは、キリストの十字架を見上げるときです。
 そこで、パウロはキリストの十字架における死を自分自身の死と重ね合わせ、結びつけることの重要性を説くのです。私の終わりをキリストが終わらせてくださったと信じることで、新しい私が始まるのです。アダムからつながる流れを切り離し、「キリストから来る流れに接ぎ木する」という表現もあります。これが聖書が語る救いです。聖書の救いは、人生における個々の問題の解決ではなく、神の前における根本的な在り方に関することです。契約によるいのちの変化なのです。
 
 宗教はこれを個人の苦悩や後悔や告白や努力や修行や善行に置き換えてしまうのですが、聖書の救いはまるでそれとは違います。救いをもたらすのは、人間の何かではなく、ただキリストの血です。死は「自然」な生物の終わりの姿ではなく、罪の結果だと言っています。(ローマ6:23)死というのは、万人に訪れる共通の終着点なのだから、それを恐れず、あわてず、静かに受け入れることを説く教えもあります。
 生き物が死ぬことは「自然」なことなのだからと言うわけです。しかし、もしそれが「自然」なことなら、どうしてこんな「不自然」なかたちで死に抵抗したり、無理に「自然」なふりをして受け入れましょうという教えがあるのでしょうか。人が死ぬのは、実は極めて「不自然」なことであり、それは罪の結果なのです。
 神が、人間が一時的に罪に陥ることを容認されたのは、神のプログラムに委ねることが善であることを人間が知る必要があったからです。「善悪の道」から「いのちの道」へシフトするということは、神が冷酷なプログラマーではなく、「その本質が愛であることを全被造物が理解するため」だったのです。神を中心にした宇宙を考えてみるならば、「全能者は、欠陥のないシステムを回しているだけでは満足出来ない」のだと言うような表現が最もぴったりくるような気がします。

 「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって望みがあるからです」(ローマ8:18~20)
 私は今日、自然が不自然な状態にあることをお伝えしてきました。もちろんそんな「不自然な自然」でさえ、残された恵みを見れば、それらを創造された御方の目に見えない性質は弁解しようがないほど明らかだとパウロは言っています。(ローマ1:18~23)さらに、そのような「不自然な自然」の中にも「自然さ」と「不自然さ」は厳密に区別できるのだとパウロは言っています。特に性的な分野においての「不自然さ」は、本来の創造の段階でのプログラムからは大きく逸脱しているとパウロは指摘しています。(ローマ1:26~27)ここでは、私が今回意図的に多様している「自然」と「不自然」というキーワードがちゃんと出て来ています。
 さて、現在の「自然」はどれぐらい「不自然」かというと「虚無に服している」と表現せざるを得ないほど、本来の在り方とは落差があるということです。この落差を感じる感受性が大事だと私は思います。

 「今の時のいろいろの苦しみ」は個人的なことではないです。これは、いわゆる自然の問題だけではありません。自然災害よりも、人間が自然に働きかけて作り上げた文明はもっと大きな問題を孕んでいます。人間が作った国家や都市は、蟻の巣や猿のコミュニティ―とは意味が違います。蜂の巣に矛盾はなく、猿のコミュニティーに汚職など存在しません。
 しかし、私たちは人類の大きな過ちに痛みを感じることは少なく、社会的弱者の問題や、さまざまな理不尽な苦しみには無関心であることが多いものです。もっぱらの関心は、金がないとか、顔がブサイクとか、才能が乏しいとかいう個人的な憂いごとです。自分の利害とは直接関係のない一般的な苦しみに無感覚な人は、将来の啓示に関しても感心を示さないでしょう。しかし、この世界の不自然さを鋭く感じ取ることが出来るなら、聖書のメッセージは、決して愚かには聞こえないはずです。
 全世界は、キリストによって贖われることを切実に待ち望んでいるのです。イエスのもたらす救いは、宇宙規模の大きな贖いです。やがて、イエス・キリストが、世界の中心としておさまるとき、私たちの世界は最も自然なかたちで回り始めるのです。
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by cozyedge | 2010-08-08 22:14 | message

使徒の働きは今も続いています。


by cozyedge