8月22日 約束の地の相続(約束の地カナン⑧)

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8月22日         約束の地の相続(約束の地カナン⑧)

 ヨシュア記は、イスラエルの民が、神の約束の地であるカナンの先住民たちとどのように戦い、どのように定住していったかが記されています。
 ヨシュア記は大きく2つの部分に分けることが出来ます。前半は1~12章にはイスラエルの戦闘の様子が書かれており、後半の13~24章には、各部族が土地を配分される様子が書かれています。前回でヨシュア記前半は終わり、いよいよ後半部分に入るわけですが、後半部分は読み物としては非常に地味な内容になっています。多くの紙面をさいて部族ごとの境界線や町々の名が連ねられているからです。よほどの興味や知識がなければ退屈してしまうかも知れません。しかし、それはマタイやルカの福音書に見られる系図と同様に、主の約束の真実を示すものです。イスラエルのカナン侵攻が古今東西のあらゆる戦争と性質が異なっていたように、その後の土地の分配についても、約束の場所をお与えになったということが大事なのであって、アレキサンダーやナポレオンが領土を広げていったのとは全く意味が違います。

 実際に13章からの配分された土地について細かく見ていく前に、大事なポイントをひとつ確認しておきましょう。エリコやアイに続いて、カナンの町々を次々に制圧していくイスラエル軍の様子を見てみると、エリコやアイを攻めたときのような詳細の描写はありませんが、簡単な記録の中にひとつのキーワードが浮かび上がってきます。それは、「剣の刃」ということばです。(ヨシュア10:28・30・32・35・37・39 11:11・14)「剣の刃」は「神のことば」を象徴するものです。(エペソ6:17)(ヘブル4:12)
 ヨシュアたちは、「神のことば」によって敵と戦い、約束の地を獲得したという霊的な意義を読み取ることが出来ます。約束の地を得るに当たってこれは極めて重要な鍵です。私たちが敵に勝利し、安息を得ることが出来るのは、ただ「神のことば」によります。「組織力」や「戦略の巧みさ」によるのでもなく、「忠実さ」や「勇敢さ」によるのでもありません。
 「神の国は人の目に認められるようにして来るものではありません。神の国は『そら、ここにある』とか『あそこにある』とか言えるようなものでありません。いいですか。神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:20~21)とイエスは言われました。
 恵の時代に当てはめるなら、占領すべき「約束の地」は、イエスの言われるこの「神の国」です。イエスが来られたことによって、私たちの間に神の国は始まりました。それは人としてのイエス御自身の中にあり、イエスが十字架に架かかれ甦られたたことによって、その贖いを受けた一人ひとりの心の中に、そして信じる者どうしの交わりの中に降りて来ました。神の国は、罪人のシェルターではありません。その核には人の子であるイエスがおられます。イエスは初めからあったものです。初めに神とともにあり、それは神御自身であり、ロゴスであり、いのちなのです。私たちの心の中から、また交わりの中から、アダムに由来する息のあるものや、偶像を拝む異邦人の王たちのいっさいの要素を、「みことばの剣」によって一掃する必要があるのです。
 かつて、主はロトと分かれたアブラハムに「さあ、目を上げて、あなたがたがいる所から、北と南、東と西を見渡しなさい。・・・立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから」(創世記13:14~17)と言われましたが、ヨシュア記では、それがまさに実現していきます。
 ヨルダン川東岸の土地は、既にルベン族とガド族、それにマナセ族の半分に与えられました。イスラエルがヨルダン川を渡る前、彼らはモーセに許されてヨルダン川の東側に土地を与えられましたが、その条件として、ヨルダン川を渡り「約束の地」をイスラエルが勝ち取るまで他の部族ともに戦ってきたのです。ヨルダン川の東に2部族半が土地を得た後、西側を9部族半で分配しましたが、分配はくじ引きで行われています。くじ引きは人の好みによる判断よりも、神の意志が現れやすいのかも知れません。神を信じる者にとっては、「偶然」はひとつもないのです。

 イスラエルの12部族は、ご承知のようにヤコブの12人の息子に由来します。ただし、12人のうちレビを祖とするレビ族はカウントせず、ヨセフの二人の息子を祖とするエフライム族とマナセ族をその代わりとして数えています。レビは特定の土地を相続しませんでした。それは、人間にとって「本質的な祝福は何であるか」を思い起こさせるための大切なしるしとされるためです。祝福の本質とは何でしょうか。それは、主に仕えることであり、受け継ぐものは主御自身です。ヤコブはこのレビの代わりとして、孫であるエフライムとマナセを、自分の養子にして、他の兄弟たちと同格にしました。

 「ヨシュアは年を重ねて老人になった。主は彼に仰せられた。『あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。その残っている地は次のとおりである。・・・・』ペリシテ人の全地域、ゲシュル人の全土、エジプトの東のシホルから、北方のカナン人のものとみなされているエクロンの国境まで、ペリシテ人の五人の領主、ガザ人、アシュドデ人、アシュケロン人、ガテ人、エクロン人の地、それに南のアビム人の地、カナン人の全土、シドン人のメアラからエモリ人の国境のアフェクまでの地。また、ヘルモン山のふもとのバアル・ガドから、レボ・ハマテまでのゲバル人の地、およびレバノンの東側全部。レバノンからミスレフォテ・マイムまでの山地のすべての住民、すなわちシドン人の全部。わたしは彼らをイスラエル人の前から追い払おう。わたしが命じたとおりに、ただあなたはその地をイスラエルに相続地としてくじで分けよ。今、あなたはこの地を、九つの部族と、マナセの半部族とに、相続地として割り当てよ」(ヨシュア記13:1~7)
 ヨシュアは老人になって、死を迎える時期もそう遠くなくなっていました。けれども、まだ占領すべき土地は、たくさん残っています。彼が生きていれば、彼が先頭に立って戦うのでしょうが、それができない以上、主はイスラエルに相続地を部族ごとに割り当て、それから彼らにその住民と戦うことを命じておられます。ですから、まだ占領していないのですが、まず割り当ての土地を与え、相続地を定めて、それから中にいる敵を倒すのです。
 この事実は、私たちがまさに信仰生活において体験するモデルです。既に勝敗は決しています。すなわち圧倒的勝利です。しかしながら、現実には私たちには勝ち目がなさそうな強そうな先住民が暮らしていたりします。約束を信じて戦いを挑めば必ず勝てるのですが、私たちは敵を見て、自分を見て、勝手に不安がったり怖じ気づいたりして、いたずらに時を過ごしているのです。
 「約束された方の真実を信じ、みことばを握って、信仰によって相続する」これしかないのです。私たちがキリストにあって神から約束されていることは、まだまだたくさんあります。それらが相続すべき土地です。私たちは与えられた祝福を持てあまし、それをほんの数パーセントも味わっていないというのが現実です。とりわけ霊的なことでなくても、私たちは自分に与えられた時間、能力、人間関係などを、きちんと管理することも使い切ることも出来ず、じゅうぶんに愉しむことも、味わうことも出来てはいない可能性があります。これは実にもったいない話です。そして、それが出来ないのは、自分以外の原因があると思い込み、口にするのは、周りを攻める不平不満であることが多いのではないでしょうか。
 
 ヨシュアが年をとれば、ともに働いてきたカレブも同じように老いていきます。
 エジプトから出て来たメンバーの中でヨシュアとともに、このカレブだけが約束の地を実際に相続したわけですが、それは偶然ではありません。カレブ自身のことばから、その信仰の秘訣と原則を見ておきます。
 「主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。・・・・今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた45時間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私はきょうでもう85歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも日常の出入りにも堪えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」(ヨシュア14:6~12)
 カレブのことばの要点は、「自分は従い通した」という証言と「約束どおりにして欲しい」という要求です。しかもこれからアナク人を戦って追い出すと言っています。カレブは現在85歳です。日常の出入りだけでなく戦争に耐えることが出来るほど壮健だと言い切っています。それだけ若々しくて元気があるから大丈夫なんだと言っているわけではありません。「主が私とともにいてくだされば」と言っています。カレブのことばを見れば、私たちが主にあって成すべきことと主がしてくださることの調和が見えます。カレブの生き様の中には、弱々しく受動的な御利益主義のキリスト教の匂いはいっさいありません。ヘブロンの地は、アブラハムがかつて住んでいた場所であり、アブラハムが死んだサラを葬るために購入した土地もあります。「何が住んでいようが、約束のゆえに相続出来るのだ」というカレブの信仰を受け継ぎたいものです。
 「アシュタロテとエデレイを治めていたバシャンのオグの全王国。オグはレファイムの生き残り替えであった。モーセはこれらを打って、追い払った。しかし、イスラエル人は、ゲシュル人とマアカ人とを追い払わなかったので、ゲシュルとマアカとは、イスラエルの中に住んだ。今日もそうである。」(ヨシュア3:13)
 イスラエル人が追い払わなかった住民がいました。それは、ゲシュル人とマアカ人です。後にダビデが結婚する妻の一人がゲシュル人でしたが、父の王位を狙って反逆したアブシャロムはその息子です。アブシャロムは父の怒りを買ったときに、ゲシュルに逃げ帰っていたと書かれています。(Ⅱサムエル13:37~38)また、ダビデに謀反を起こしたシェバも、マアカ人の住むところに逃げています(Ⅱサムエル20:14~15)
 このように、ゲシュル人とマアカ人を追い払わなかったことが、後になって問題の種となり、イスラエルはその刈り取りをすることになります。これは、私たちがこの世や肉の要求と妥協することのモデルとなっています。御霊に導かれて、肉が支配している部分を殺すことが大切です。
私たちは何であれ、自分の蒔いた種を刈り取ることになります。神のことば以外には良い種など存在しません。つまり神の種を蒔かない人は悪い種以外蒔いていないということです。剣を用いずに残ったものは悪い種となって残り悪い実を結んだわけです。結果として私たちは後になって災いを収穫するのです。

 「レビ人」についても、もう少し丁寧に触れておきたいと思います。レビ人には相続地は与えられませんでした。「主への火によるささげ物、それが彼らの相続地であった」(ヨシュア13:14)と書かれていますが、同じ章の終わりには、「主が彼らの相続地である」(ヨシュア13:33)と言い直されています。ささげ物は主ご自身と同一視されています。言い換えれば、ささげものは実際に相続する土地よりも重要だと言っているのです。これは口で言うのは簡単ですが、信仰がなければ、「じゃあ、何のために苦労して移動してきたの?」ということになりかねません。「レビ人」の存在は、民全体にそして私たちに、主へのささげものは主ご自身であり、ひとり子イエスの血潮だけが、義なる御父のなだめとなるのだということや、その尊い生贄の価値を味わうことこそが、広大な領土にまさる相続地であると教えているのです。
 「レビ人」の解釈について、もう一言付け加えておくと、新約の時代にはレビ系の祭司職は終わってメルキゼデク系に変わっていますので、「レビ系の特権」を現代に適用して、牧師や宣教師などの特権と結びつけないことです。大事なのはキリストのいのちです。組織的、制度的なものを持ち込むと律法的、宗教的になります。「良きサマリヤ人のたとえ」の中でも、イエスはレビ人は手負いの隣人を見捨てて冷ややかな態度で通り過ぎる役割を演じさせています。レビは他の部族のように相続地を持たないことで、より本質的なことを表しています。メルキゼデクはレビのように世襲しないことによって、より本質的なことを表しています。律法は何事も全うしませんでした。イエスが律法を全うし、その上で十字架の死によってそれを終わらせたのです。まことの大祭司であるイエスの血によって近づく私たちが、再びレビ系の話を歪んだかたちで持ち出してはいけません。
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Commented by 電気屋です at 2010-08-30 16:27 x
語っていただき、またそれを掲載いただき感謝です。
ヨシュア記を読む時「私と私の家は主に仕える」が思い浮かんできます。
私とはキリストでその家とは私の事ですが、メッセージに有ったとおりに、まだまだ剣により切り分けられてない部分を自分に見る時、優柔不断さという優しさを思わされます。
イエスは今日も完全に主に仕えているにもかかわらず、イエスの住まう宮であるこの体にアダムに属するものが残されており、それは今もそうであると書かれてあるのを見ます。
あくまで死と復活が御言葉の指し示す回答であって、一度落ち込んで元気になったから「復活した私」などではなく、もはや私ではなくイエスが、、、になること。
人には何かしらの魅力にある部分やましてや自分は可愛いのでこれくらいはと人間的寛容さを自分に示す愚かさ、それこそ自分の力によらず、主の言葉の通りに勝ち取ることですね。
カレブの言葉は実にすばらしいです。
全ての主にあるものが、同じ証が出来ますように。
Commented by Salt at 2010-08-31 11:45 x
電気屋さん、いつもコメントありがとうございます。

いつまでも主にあって、ともに壮健でいましょうね。

キリストとともにある若々しさを保っていたいなあと思っています。

お逢いしたときに、一緒に自然の中で遊び回れる体力と気力を残しておきます。
by cozyedge | 2010-08-23 00:32 | message | Comments(2)

使徒の働きは今も続いています。


by cozyedge