10月3日 コンプレックス(ひねくれ者のための聖書講座⑳)

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10月3日       コンプレックス(ひねくれ者のための聖書講座⑳)

 今日は、人の心に深く根ざすコンプレックスについて考えたいと思います。
 コンプレックスを「劣等感」と結びつけて考える人が多いけれど、学問的に言えば、それは正解ではなはありません。私は、学問的見解が一般的理解より優位とは全然思ってはいませんが、一応認識を整理するために、本来の意味に立ち戻って話します。コンプレックスとは「ある事柄と本来無関係である感情との結びつき」のことのことです。つまり事柄と感情の複合体というような意味です。

 コンプレックスの意味は、スクリーンがたくさんある巨大な映画館をシネマ・コンプレックス(いわゆるシネコン)と言うけれど、そのコンプレックスと同じです。数学では、複素数をコンプレックスナンバーと言うし、文学では、複文のことをコンプレックスセンテンスと言います。いずれも「劣等感」とは関係ないでしょう。コンプレックスは、ただ「引っ付いている」という意味なのです。無関係なものがくっついているイメージが分かり易いです。
 心理学で使う場合は、コンプレックスには「心的複合体」というちょっとわかったような、わからないような訳語がつくのですが、厳密に言うと、「劣等感」は「劣等複合」といってコンプレックスのひとつの表れのひとつに過ぎないのです。

 コンプレックスが劣等感の同義語として広く受け入れられた背景には、アドラー心理学の流行があります。「すべての人は劣等感を持っており、それは努力と成長への刺激となる」とした彼の理論をそのままコンプレックスの説明として無批判に飲み込んだからです。欧米コンプレックスを克服しながら、高度成長を目指した戦後の日本人の事情にマッチしたのです。また、アドラーは、西洋医学のように個人をパーツ化するのはなく、「人間は統一体であってその存在は分割できない」と考えたので、発想が東洋的だったので、受け入れやすかったのでしょう。

 アドラーの理論は、彼自身の劣等感からスタートしました。アドラーは幼い日の事故が原因で身長は150cmしかありませんでした。もし、彼が190cmの大男だったら、アドラー心理学は別のものになっていたはずです。そう思うとちょっと馬鹿らしいと思いませんか。人間の理屈なんてその程度のものなのです。
 背の高さと学問は直接関係ないはずですが、実は見事に結びついています。短絡的な説明だと思わないでください。補足のために、さらにふたつの例を挙げます。
 フランスのロートレックという画家がいますが、彼も身長は152cmしかありませんでした。遺伝的な弱さと怪我のせいで、上半身は普通に成長しましたが、脚の成長は止まったままだったので、アドラーよりもさらに容姿に悩みを持っていたのです。ロートレックは、「もう少し背が高ければ絵なんか描かなかっただろう」と言っています。
 ドイツのバルナックという写真の技術者がいますが、彼もまた背が低くてひ弱だったので、大きなカメラを使うのが負担でした。そこで自分でも使えるようにと小型のカメラを開発したのです。それが、現在の35mmカメラの元祖となった名器ライカです。
こういうのは、劣等コンプレックスをバネにして、新たな価値を創造した成功例であり、アドラーの理論を裏付けているようにも見えます。
 背が低いというのは、ものすごく分かり易いコンプレックスですが、人が劣等感にさいなまれる構造というのは、もう少し複雑です。大した問題ではないのに、ものすごく大きなマイナスに感じてしまうこともあります。
 劣等コンプレックスは思春期に生まれますが、他者のまなざしを意識しはじめ、自分との違いや自分の価値を求め始める頃に生まれます。他者との比較の結果「優越感」と「劣等感」が生まれます。学校に入るや否や背の順に並ばされます。隣に比べる人がいなければ、背が高いも低いもないわけです。
 「劣等感」を感じ続けていると、「自己嫌悪」に陥り、「自己否定」につながります。人は、自己を肯定しないでは生きていくエネルギーが生まれませんから、このマイナス感覚を将来の伸びしろとらえようという物の見方がアドラーの発想です。
 多くの劣等コンプレックスは「誤解」や「過剰な思い込み」によるところが大きいので、様々な人生経験を経るうちに、思春期に抱えていた劣等コンプレックスを克服していくものです。劣等感Aを克服するために、優越感Bを得ようとする。脚を引っ張っても背が伸びないので、別の高い山に登って他者を見下ろしたいと思うわけです。ロートレックやバルナックはそれぞれの上るべき山を見つけましたが、多くの場合は、シークレットブーツを履いたりして、他者の目をごまかし、自分のマイナスをより強く意識し続けることになるわけです。

 人の感情は非常に複雑で「劣等感」だけではありません。コンプレックスはそんなあらゆる感情の複合です。嫌悪、憎悪、敵意、恐怖、そして、愛着や葛藤など、あらゆる感情がある種の事柄と結びついて人間の深層に潜み、その人の価値観や行動に少なからぬ影響を与えるのです。例えば、ファザコンやマザコンは父母への過度の愛着、エディプス・コンプレックスは息子の父親に対する敵意、ダフネ・コンプレックスは処女の男性嫌悪・・・etc
 様々な心の状態に、新しい名前がどんどんつけられていきます。カウンセラーが繁盛するわけです。もともとカウンセラーになろうなどと思う人は、ウジウジくよくよ悩んでいた人が多いわけですから、そういう人に相談しても、根本的に解決するというよりは、シークレットブーツのかわりに、「脚立」とか、「竹馬」とかを見せてくれるだけです。
 患者には、よくわからないモヤモヤに○○コンプレックスという名前を付けてもらって安心したい欲望があり、学者には自分のモデルの中に人を押し込めて標本化したいという欲望があるものです。そんな共依存はまさにSMクラブ的なので、あまり健康的とは言えません。

 コンプレックスは、時としてその人の主体性をおびやかすこともあります。流行の不登校の原因とされる「学校恐怖症」などもその一例です。 これは背が低いとかいうようなわかりやすい原因ではなく、本人が自覚する理由がないのに、どうしても学校へ行けなくなるのです。本人でさえ原因がわからないから問題なのです。学校へ行こうとすると、本当におなかや頭が痛くなったりします。
 似非カウンセラーや素人教員は、「このようになったからには何かの理由があるはず」と考えて、子どもを問いつめ、「どうして」「なぜ」に当てはまる理由を求めたりします。そうすると、事態はますます混乱するのです。そして、ありもしない「いじめ」を告白させて、ますます親や子どもを袋小路に追いつめる例もあります。本人さえほとんど意識出来ない、言語化出来ない原因をさぐり当てるのは、実は至難の業なのです。実はこういうタイプの子どもには、真面目なよい子が多いのです。親や周囲の期待に応えようとして応えきれなくなってきて苦しくなり、エネルギーを消耗してしまうのです。この場合、比較の対象は、周囲の誰かではなく、架空の理想像としての「もうひとりの自分」です。

 さて、肝心の聖書はどう言っているのでしょうか?

 「人の心は何よりも陰険でそれは直らない。だれがそれを知ることが出来よう」(エレミヤ17:9)
 人の心は良くはならない。しかも、その陰険さの質も程度も本人では捉えきれないというのが、聖書の教えです。なぜなら、人は神の園エデンを離れ、神のまなざしから逃れ、恥ずかしい部分を隠そうとしたからです。フロイトは人を動かしているのは「抑圧された性欲である」と考えましたが、ユダヤ人であるフロイトが、アダムとエバの腰の覆いの下に無意識の世界を発想したのは良く理解できます。
 一方、アドラーは、「人間を根本的に動かしているのは、優越を求める心だ」と言っているように劣等感を克服する権力への意思を肯定しているわけです。これはバベルの塔を建てるニムロデたち事業の原動力になったものです。
 心理学やカウンセリングのもうひとりの大御所ユングは、カインとアベルの物語を下敷きに、カイン・コンプレックスという心の状態を説明しています。
 子どもが親の愛情を差別的に受けた場合、あるいは受けたと感じた場合、それによって苦しんだ原体験は、兄弟姉妹以外の関係にも投影されていくというのです。このコンプレックスを負う者は、親の愛を巡る葛藤の相手となった兄弟姉妹と同じ世代の周囲の人間に対して「憎悪・嫉妬・敵対心・劣等感・優越感・侮蔑感・屈辱感・憧れ・殺意」などの感情を抱くことがあるとユングは説明しています。
 聖書の中の例を挙げると、ヨセフと兄弟たち、モーセとアロンとミリヤムや、マルタとマリヤの関係、放蕩息子とお兄さんなども、カイン・コンプレックスというカテゴリーに入るのでしょう。
しかし、こんな解説をしたところで、それが何になるのでしょうか。
聖書はこう言っています。
 「しかし、イエスはご自身を彼ら(エルサレムで御名を信じた人たち)にお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてのだれの証言も必要とされなかったからである」(ヨハネ2:23~25)
 つまり、イエスは信じた者さえも信用していません。人が人について証言することは神の前には無価値です。そして、何より、イエスの信頼を得ようとがんばること自体が不信仰なのです。「イエスに知られていることを知ること」が唯一の安息であると私は思います。「信用に足りない私を愛してくださっている。だから、安心なんだという感覚を、私たちは信仰の歩みの中で様々な経験を通して日々確かなものとされていくのです。
 コンプレックスは、神から離れた後ろめたさと取り繕いの間におこる葛藤であり、神を抜きにしているから、それ以外の本来無関係な事実が原因であるかのような症状が発症するのだと私は考えています。
 聖書は小説ではないので、世の小説家が本来最も紙面をさくであろう登場人物の内面の葛藤などは描かれることはありません。また心理学の本でもないので、ある行為に関する分析も解説もありません。
ただ人間の意志決定や行為に関する事実が淡々と描かれるばかりです。
 偉大な葛藤の記録を残してピストルで自分の頭を撃ったり、奥深い人間のドラマを描いて女と心中したりというのはよくある話です。人は残された作品に共感するかも知れませんが、神はただ自殺を評価されます。要するに、神の前に取り繕う能力の優越など競っても仕方がないということです。
 ロートレックの絵画や、ライカのカメラはそれなりに価値があるものですし、私はどちらも大好きですが、神の前には誇りうる価値とは見なされません。彼らの背が低かった理由は、もっと違ったところにあったのです。

 新しく生まれ変わったクリスチャンであっても、信仰があるにも関わらず、未だに何らかのコンプレックスを引きずって生きているかも知れません。それは、私たちが肉の弱さの中にある以上、やむえないことなので、そのこと自体を責めても悔いてもどうにもならないでしょう。
 しかし、はっきりと断言出来ることがふたつあります。ひとつは、コンプレックスは信仰からは生まれはしないということ。そして信仰はあらゆるコンプレックスを乗り越えるということです。

 人間が成長する過程では、「もうひとりの自分」という対立する自我があり、 自我の一面性を補償するというものとして、コンプレックスが大きな役割を果たしているのだと見ることも出来ます。この「もうひとりの自分」とは私たちの良心の中に見え隠れするイエスの影なのだと私は理解しています。福音書でイエスと出逢ってその出逢いをプラスに変えた人たちは、取税人や遊女などを筆頭に、様々な分かり易い劣等コンプレックスを抱えた人たちでした。彼らはイエスのことば、イエスの存在によって、もうひとりの自分に自分を責めることをやめさせたわけです。

 一方、そんな彼らとは対照的な人物がイエスに会いに来る場面がありますこの人物は、聖書の教えに忠実な敬虔な人物(マタイ19:20)で、まだ若く(マタイ19:22)大金持ち(マルコ10:22)で、しかも、議員(ルカ18:18)でした。
 この永遠の価値を志向した若者がイエスのもとに来る原動力になったのは、私はいろんな戒めを守って生きてきたという優越感や自負とともに、まだ何かが足りないという「欠け意識」です。この青年には、「背が低い」というような分かり易い劣等感はありませんでしたが、「まだ何かが足りない」と考えていたので、イエスのもとに来たのです。この「コンプレックスス」を自分で埋めるのか、イエスに埋めていただくのかが鍵です。どれだけ「欠け」があるのかは問題ではありません。それを埋めてくださる方は無限の御方ですから。
 私たちは、周囲との比較や他者のまなざしによって、優劣を競うのではなく、イエスの贖いによって義とされ、神の目に尊いものとして受け入れられ、和解する道を選ぶべきです。
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by cozyedge | 2010-10-05 00:22 | message

使徒の働きは今も続いています。


by cozyedge