10月31日 ルカ15章 at 東近江

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10月31日       ルカ15章        ろばの子キリスト教会にて

 本日はお招きにあずかりありがとうございます。今日こちらへお邪魔するにあたって、池田さんから丁寧な4枚にも及ぶFaxが届きました。「私の車にはカーナビが付いていません」と申し上げておいたので、インターチェンジを降りてからこちらまでの地図を実に細かく書いてくださったものでした。当然、私はこれを1枚目から順番に見ていきました。4枚のFaxを3枚目から見る人はいません。誰かから手紙をもらったとき、前後を無視してある部分しか読まないということはあり得ません。連続性や関係性が大事なのです。すでにこのあたりから前置きではなくてメッセージの本題に入ってきているわけですが、聖書を読む場合、部分を切り刻んで好きなように読んでいることが多いのではないかという問題提起です。文脈の中での一節の意味を考えないと、とんでもないことになります。主が意図されなかったことや、場合によっては正反対の内容がイエスの御名によって語られるということになります。新聞や雑誌を切り抜けば、脅迫状でもラブレターでもかけるように、ありもしないメッセージやとんでもないストーリーを盛り込んだ宗教をでっちあげることが出来るのです。これは恐ろしいことです。
 またいただいたFaxの中には「愛餐」という独特の表現も出て来ましたが、特に「手紙」のような形式の文書の中では、お互いが共有するところの時代や文化な背景が前提になっています。ですから、時代背景や当時の文化的意味合いやニュアンスを理解することも大切です。こうした繊細さを欠くととんでもない解釈によるガチガチの神学が出来上がってしまいます。ですから、聖書は文脈や全体性の中で理解することが大切です。それぞれの節や章、そのつながりの中から浮かび上がる「人としてのイエス」の人格と御業、そして十字架と復活を読み取ることが出来なければ聖書を読んだとは言えないのです。
 今日はみなさんもおそらくよくご存じのルカ15章から、聖書がその全体を通して語っている重要なポイントについて数点、確認してみようと思います。さらにこの箇所をテキストにして「聖書はどのように読んでいくべきか」を見ていきます。さらに「悔い改めについて」「罪について」「信仰について」「交わりについて」という4点に触れます。
 ルカ15章は3つのたとえ話が出て来ますが、この3つはバラバラに読むべきものではありません。それぞれのたとえが互いを補うような内容になって構成されているからです。私たちは聖書のあることばを読むとき、その書かれた意図や背景をきちんと理解しているでしょうか。例えば、この3つの話が語られたイエスさまの意図や背景をちゃんと答えられますか。これらのたとえ話は、イエスさまのもとにやってきた取税人、罪人たちとの親しい関係を快く思っていないパリサイ人、律法学者のつぶやきに対して語られたものです。つまり、「迷える羊」や「失われた銀貨」や「放蕩息子」は、取税人や罪人たちを指しており、囲いの中に残っている羊や、失われていない方の9枚の銀貨や、父の家にいる兄は、つぶやいているパリサイ人や律法学者たちを指していることがわかります。ですから、失われたものが見つかった喜びを伝えると同時に、その愛がすべての人に対して注がれていることが伝えられているのです。言い換えれば、特に失われた羊や銀貨を、ふたりの息子の話につないだ上で「結果的に最後まで失われたままでいるのはどっち」という問いかけをしているわけです。このような意図があるので、「残されているものにまさる喜び」というある意味で比較にならない比較があえて語られているわけです。救いは、失われていることを自覚することから始まります。
 パリサイ人、律法学者たちは、「自分は迷っていない」「失われていない」「放蕩していない」と思いこんでいます。ところが、これは「迷っていない羊などいない」「失われていない銀貨などない」「放蕩していない息子などいない」という逆説です。なぜそう言えるのでしょうか。同じような指導者たちのつぶやき(ルカ5:30)に対して語らえた別のことばを思い出してください。
 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(ルカ5:31~32) これは、「あなたがたは、罪人じゃないから、キリストはいらないのです。」という意味ではなく、「自分では正しいと思っていても、あなたもキリストが必要な罪人じゃないですか。」という意味ですよね。つまり、みことばを「書かれてあるとおりに正確に読む」ためには、その箇所だけの断片的な意味ではなく、聖書全体の中から、「みことばをもってみことばを解く」読み方が要求されるということです。ある節の扉を開く鍵の節を見つけることが重要です。それは全体をとらえた上でしか見えてきません。
 例えば、失われた羊のたとえは「御子イエス」、銀貨のたとえは「聖霊」、そして放蕩息子のたとえは「父なる神」の側面からそれぞれ三位一体の神のみこころを解き明かされたものです。これらのたとえの一般的な呼ばれ方にも問題があります。いずれも視点が神の側からではなく、人の側からの名前の付け方です。「失われた羊のたとえ」は御子イエスである羊飼いが、「銀貨のたとえ」は女である聖霊が、そして「放蕩息子のたとえ」は父親である父なる神がさらに重要なのです。
 このような捉え方が、冒頭から申し上げている基本的な聖書の読み方のアウトラインです。あるいは、これは語り方のルールでもあります。多くの場合、福音は聴き手に媚びるように、聴き手が心地良いように、その感動を無理矢理あおるように演出されているように感じられます。しかし、イエスはそうではありません。むしろ一番の聴き手が腹を立てて、殺したくなるようなメッセージをされたのです。無論それを狙われたわけではなく、聞き手のかたくなさのゆえに結果としてそうなるわけですが、「あなたはこんなにも愛されているんですよ。父は走り寄って抱きしめて罪を赦してくださるのですよ」というような歯の浮くようなメッセージはされませんでした。聖書にはそんな馬鹿馬鹿しい子どもだましなメッセージはひとつもありません。混ぜもののある福音やもうひとつの異なる福音などないとパウロは明言しています。

 続いて「悔い改め」と「罪」の問題について考えてみましょう。「悔い改め」というと、明るい「陽」のイメージよりも暗い「陰」のイメージがないですか。自分の内側を見ているか、神を見ているかを問えば、自分の内側を見るイメージが強くないですか。過去を見ているか、未来を見ているかを問えば、過去の罪や失敗を振り返っている感じがないですか。これらのイメージは全部間違いです。実は「悔い改め」は神を見つめ、未来を展望する明るい作業です。悔い改めのバプテスマを授けたバプテスマのヨハネは、罪を告白した人々に過去をとがめずに未来のことを語っています。「悔いる」ことではなく、「改めた」これからが大事なのです。「悔い改め」は、ギリシャ語で「メタノイア」と言います。「メタ」は、アフター(~の後で)、「ノイア」は、マインド(考え、思い)を表します。直訳ですれは、「~の後で考えを変える、思い直す」という意味になります。英語の聖書ではrepentと訳されていますが、その説明として、アップルコンピューターのキャッチコピーで有名な「think different」とも書いてあります。方向の転換です。ちょうど放蕩息子が、遠い国に向かって出て行ったのが、財産を使い果たしてすってんてんでお先真っ暗になったときに、お父さんを思い出して帰ってくる姿はとても分かり易いモデルです。一方で兄息子も「悔い改め」という方向転換を迫られているわけですが、彼の場合はずっと父の傍にいて放蕩したわけでもないので、兄タイプの人たちはこのあたりがイメージしづらいのです。
 「悔い改め」る為には「罪」の自覚が必要ですが、良い子を演じてきた兄ですから、特に「罪」と言われるような悪いことをしたわけでもない。ギリシャ語では「罪」のことをハマルティアと言います。これは「的はずれ」という意味です。もともとオリンピックの弓の競技で使われていたようです。ど真ん中にあたるのを100点とすると、90だと10ハマルティア、80だと20ハマルティアという風に使っていたようです。つまり、「どれだけ中心からぶれているか」ということが罪の度合いを決めるのです。ですから、ずっとお父さんの傍にいても、お父さんの心を知らずにかたちだけ仕えていた兄息子は大きく的をはずしていたことになるわけで、優しいお父さんにすがろうと思って帰ってきた弟が、その方向転換とともに的はずれを修正したことになるのです。

 では、放蕩息子がどんな具合に修正したのかをもう少し詳しく見ながら、「信仰」とは何かを考えてみましょう。彼は自分でへりくだって何とか受け入れられようとしていたのですが、父の一方的な愛で受け止められ、その愛を受け入れます。つまり雇い人のひとりとしてではなく、愛する息子として迎えられたのです。このように、「信仰」とは、自分の惨めな状態を克服する努力をすることではなく、父が受け入れてくれたとおりに自分を受け入れてやることなのです。信仰においては、「状態」ではなく、「立場」が重要です。父は走り寄って抱き、口づけし、急いで一番良い服を着せたのです。この最上の服はキリストの贖い、完全に義とされた立場を表すものです。従って、「信仰」の告白とは、放蕩三昧の過去について報告することではなく、息子として愛されている立場を誇り宣言することです。徐々にではなく、一気に受け入れられたことは注目すべきです。信仰は人が作った宗教のようにステップアップしていくのではありません。子どもや花嫁という立場が与えられるのです。当然、その関係は深まり、いのちは生長し状態は変化していきますが、立場は初めから完全なのです。
 それだけに、「罪」というのは、羊飼いを見失った羊のような危険な状態であると同時に、持ち主の手を離れた銀貨のように無価値のものとなっています。それは立場においても状態においても極めて残念な現実です。ですから、人はキリストに出会うまでは、とても不安で自分の価値を見いだせないでいるのです。
 キリスト者にとっての価値とは、世の中の尺度によるランクづけとは異なっています。それは言わば、羊飼いの愛がつけた価値です。私たちが価値を持つのは、聖霊の働きによってその意図する使い道に用いられたとき、期待される永遠の価値と交換されたときに生まれます。これをタラント(タレント)と言います。タンスの陰やベッド下で埃にまみれていては銀貨も、せっかくの銀貨もゴキブリと同じです。このように、「信仰」とは、羊の目線ではなく、銀貨の目線ではなく、羊飼いを中心に、女を中心に物事を考えることなのです。
 女は家の中であかりをつけて銀貨を探しています。これが聖霊の働きであり、信仰の姿です。女は教会であり、教会の働きを導くのは聖霊です。あかりはみことばです。また、この銀貨は原語ではギリシャ通貨のドラクマとなっています。1ドラクマは1日分の給料で、現在の日本の価値にして1~2万というところでしょうか。こうした周辺情報の知識もより正確な理解の助けになります。
 私はずっと言い続けているのですが、「宗教」とは「地から天に向かう上昇のベクトル」です。これはバベルの塔にモデル化されています。逆に「信仰」というのは、神からの啓示や恩寵を受け止めることであり、それは「天から地に向かう下降のベクトル」です。これは地に向かって立てかけられたヤコブのはしごにモデル化されています。そのはしごは唯一の仲介者である人としてのイエスの象徴であり、その「信仰」のはしごには双方向性があります。ナタナエルが幻に見たものです。
 さらに、羊飼いのたとえから考えてみます。日本では羊を飼う習慣はあまりありませんから、このたとえはわかりにくいかもしれませんが、当時のパレスチナの遊牧民の暮らしを思い描きつつ、羊を別のわかりやすいものに置き換えて考えてみてはいかがでしょう。私は小学校の教員をしていますので、わかりやすいのはクラスの子どもたちに置き換えてみることです。先日、掃除の時間にきつく叱った子どもがすねて5時間目に戻って来ませんでした。6時間目になっても居場所がわからず、何人かの先生にも手分けして探してもらいました。6時間目の終わり近く、彼は自分で戻ってきたのですが、とりあえず「おかえり」といってからだを抱いてやりました。もっと叱られると思っていたのでしょう。最初はちょっとおどおどしていましたが、ほどなく落ち着いて、帰るころには笑顔が戻って来ました。こうしたとき、聖書に書いてあることは本当だなと実体験します。頭で理解することは大切ですが、みことばに書かれていることは実際の生活の中でしみじみと味わうことが出来るのです。こうしたときに、私の羊飼いである方を思い起こし感謝するのです。イエスは私をこんな風に探してくださったのだなと感謝がこみあげてくるのです。日曜日に教会で集まって祈る整ったことばの中よりも、こうした平素の暮らしの中にこそ、本当の「礼拝」があります。信仰とは、神が遣わされた仲介者であるイエスを知ること、まことの礼拝者としてのイエスを知ることでしょう。また、羊飼いと羊のつながりの深さを味わうことでしょう。

 最後に「交わり」についてです。これは一番難しいところです。「兄はおこって、家に入ろうとしなかった。」(ルカ15:28)とあります。家は教会です。「家にいながら、家にいない。」こういうことがあるのです。家の中には祝宴があります。ここでは肥えた子牛がほふられています。食事は、いのちのことばを味わうこと、御父ならびに御子イエス・キリストとの交わりです。教会は霊的な祝宴が保たれるべきです。楽しい祝宴にはあずからずに、家の隣で一生懸命仕事している兄の労働には誰も加わりたいとは思いません。長年の間の彼の窮屈で堅苦しい生活から生まれたものは、不満と憤りだけだったことを覚えてください。教会はやすらぎの場所、喜びの場所、宴会の場所です。弟は父の愛を存分に味わって、破り放題だった戒めも守るでしょうし、仕事だってするでしょう。それは、父に取り入るためではなく愛されているがゆえに自然にそうするのです。兄は弟のことを気にしましたが、弟は兄を気にしませんでした。弟は我に帰ったとき、兄のことを少しは思い出したかも知れませんが、彼の思いの中心は、「自分と父との関係」でした。これも大事なポイントです。父との関係が不健全な人は、いつも誰かを引き合いに出して攻撃性を剥き出しにします。そうではなくて、交わりの中心は、私たちが日々五感で感じることの出来る身近なキリストのいのちの経験であるべきです。それは、まずみことばを聴くことから始まります。そのことによって、私たちの日々のささやかな経験が、ちょっと実感しにくい天的な喜びと結びつくのです。一人の罪人が悔い改めて救われることがどれほど大きなことであるかを知るのです。天の御使いたちの喜びの大きさは、主の払われた犠牲の大きさとその計画の壮大さを知るがゆえのものだからです。
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Commented by 電気屋 at 2010-11-04 20:48 x
[信仰においては、「状態」ではなく、「立場」が重要]
私達からみるとなかなかといいますか、一向に良くならないので希望的な事は徐々に良くなっていると思いたいわけです。ところが神は今だけを見る方ではなく未来も彼の目には隠されていない訳で、アブラハムしかりギデオンもまだそうなってない時にすでに得ているように今、呼び出す方。正直この3つの喩、なぜ今まで気づかなかったのだろうと思うほどです。ありがとうございます。
喩って深いですねー、コレはこの喩に使えるという事でなくこの喩の為にコレをこのように造ってあるわけで、イエスが権威ある者の様に語られた理由もここにありますね。葡萄園の農夫の喩で目茶目茶良くない管理者のイスラエルから新しいもっと良いはずの教会が同じような轍を踏んでいるのを見るけれどそれでも神のご計画は一直線に進行している。神に期待しましょう。神に自分でなく神にただ、神に栄光がありますように。
Commented by Salt at 2010-11-04 22:39 x
電気屋さん、どうもです。

父との和解が出来ていない兄弟たちの間で混乱が起こるのは当然ですよね。

それにしても、父の教育には謎が多いです。



by cozyedge | 2010-11-01 18:17 | message | Comments(2)

使徒の働きは今も続いています。


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