11月28日 自殺について①(ひねくれ者のための聖書講座21)

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11月28日     自殺について①(ひねくれ者のための聖書講座21)

 今から40年前、1970年11月25日、作家三島由紀夫こと平岡公威は、自衛隊の市ヶ谷駐屯地にて隊員に向かってクーデターを呼びかける演説をした後に、楯の会メンバーとともに割腹自殺を決行しました。先週の木曜日は三島の命日だったので、ここ数日、私もいろいろ思い巡らせていました。
 特に鳩山政権では沖縄の米軍基地をめぐる問題に揺れ、さらに菅政権になってからは、ロシアとの北方領土問題、さらに中国との尖閣諸島問題、さらに今回の朝鮮半島の砲撃事件と、何となく続いてきた戦後の平和の脆弱さを露呈する出来事が次々におこり、その破れ口が国を揺るがす致命的なものになりかねないことに、ようやく国民が気づき始めたようです。
 今日の日本を見通していたかのような、三島の生前の発言や、その憂いに触れ、改めてショックを受けている人たちも多いようです。例えば、死の直前に新聞掲載された「私の中の25年」という文章には、こんな一節があります。「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」 
 
 三島は単純な天皇崇拝者ではありません。また、自衛隊員の中に行動を共にする者がでることは絶対にないことも知っていたのです。従って、三島事件は、政治的な決断でも思想的行動でもなく、空虚な自分の文学の美意識に殉じた演劇的な死であったと私は見ているのです。それは「金閣寺」や「憂国」という彼の代表作、及びとりわけ「太陽と鉄」という作品の中に顕著に表されていますが、今回はこれ以上話そうとは思っていません。また、今日の世界の状況やその中の日本の在り方についても、メッセージの中で自分の意見を強く主張しようは思っていません。

 私は、三島の死を少しも美化する気はないし、自殺そのものに理解を示す立場はとりません。また、三島の思想や生き方が安直なナショナリズムと結びつけられて、シビリアンコントロール(文民統制)が揺らぐことには危惧を覚えます。
 では、なぜ三島の話を冒頭にしたのか。それは「自殺について」お話するためです。毎日のように自殺の報道がなされています。毎年3万人を越える人たちが自ら命を絶っています。昨年は3万2845人です。これは簡単に聞き流してよい数字ではありません。そんな日本の異常な自殺率の高さについて、WHO精神保健部ホセ・ベルトロテ博士は次のように語っています。「日本では、自殺が文化の一部になっているように見える。直接の原因は過労や失業、倒産、いじめなどだが、自殺によって自身の名誉を守る、責任を取る、といった倫理規範として自殺がとらえられている。」
 英エコノミスト誌(2008.5.3)は「日本人の自殺-死は誇らしいか」という記事を特集しました。その中で、日本の高い自殺率を、日本人の文化的な要因、あるいは社会的特性として説明しています。「日本社会は失敗や破産の恥をさらすことから立ち直ることをめったに許容しない。自殺は運命に直面して逃げない行為として承認されることさえある。サムライは自殺を気高いものと見なす」また、私は次の一節に注目しました。「仏教や神道といった日本の中心宗教は明確に自殺を禁じていたアブラハム系信仰と異なって、自殺に対して中立的である。」

 つまり、高い自殺率について考えるとき、文化的要因や社会的特性が関連しているけれど、それ以上に宗教的な原因を求めなければならないというポイントです。
 私は、宗教観の違いがこういう結果を生むのだという納得は偽物だし、何ごとをも説明していないと思います。そこで、私は私なりに別の角度から少し問題提起してみます。
 何を信じるにせよ、とりあえず私はここにいます。誰も自分で望んで生まれてきた人などいないのです。私たちは誰一人として、自分が生まれてくる国や時代を選んでこの世に登場したわけではありません。性別も選べず、親も家庭環境も選べません。顔のデザインや体型、性格、後付けの自己責任の部分はあっても、生まれながらに押しつけられたものが大部分です。このように私たちを構成する様々な基本的要素は、そもそも私たちに変更不可能なまでに深く組み込まれています。とりあえずそんな私がいます。これを哲学的にいうと「実存」と言うのです。
 さらに実存主義では、この実存自体には何の意味も価値もなく、それは自らが選び取って、形作っていくものなのだと言うのです。決して神が用意したものではなく、神が与えるものではないという造物主に対する訣別宣言でもあるのです。こうした在り方を「実存は本質に先立つ」と言うのです。
 こういう比喩がよく使われます。「人間がペーパーナイフをつくる場合、ペーパーナイフとはなにかという観念が先にあって、ペーパーナイフをつくることになる。この紙を切るという目的の為に作られた刃物であるという概念が本質になります。しかしながら、人間の場合、ペーパーナイフとは違って、あらかじめ人間とは何なのかという本質が決まっているわけではなく、人間は自分でなりたいものになるべく、未来に投企し、自分をつくりあげるのです。」
 このような考え方は、神に運命を決定づけられていると考えるより、はるかに大きな人生の選択の可能性があり、人間は自由であることの宣言だとして、大いに歓迎されたわけです。
 「神に運命を決定づけられている」という思い込みが、神を信じている人たちの間にあったからでしょうし、神を信じない人たちにはそのような考えは極めて不当で窮屈なものに感じられたのでしょう。

 「私」が「私」を作ったのでない以上、誰か、すなわち「神」が「私」を作ったのですが、人はその事実を出来る限り無視しようとしています。それは、「私」を形作った「神」と「私」との関係が絶たれ、和解が成立していないからです。(ローマ1:18~23)
 「私」には「神」の記憶と「罪」の後ろめたさは残っているのです。この神の記憶と罪の後ろめたさが、和解にこぎつけるための地図の半分になるのですが、人は言い訳を求めようとします。そして、神を憎みます。そして、人は、飼い主を忘れた牛、飼い葉桶を離れたろばのようになってしまったのです。(イザヤ1:2~3)

 罪が入ったので同時に死が入って来ました。自殺しなくても、人は必ず死にます。だから、「一度限りのいのちを大事にして、自殺なんかしないで生を全うしなければ」とはならず、だからこそ、「自分の決めたときに自分の意思で生を終わらせたい」と思ってしまうのです。「自分で生まれる日を決めたのではないから、死ぬ日も自分で決めるべきではない」と考えないで、「望んで生まれてきたわけではないから、自分のいのちに生きるに足る価値があったか決めるのは自分だし、自分のいのちは自分のものだから死ぬ日を決める自由がある」と主張するのです。
 最近流行ったあるドラマの中でも、「死ぬことが決まっている病人にとって、どうやって死ぬかを選ぶことだけが生きる証になるんだ」という意味のことばありました。元気なときは死を意識しない人が多いのですが、死は必ずすべての人に訪れます。死に直面する前に、死を意識する人は、生きた証として死を選ぶ可能性がふくらんできます。人間の存在というのは不可思議なものです。人間はただ自分のいのちを生きるだけでは生きた心地がしない。だから死にたくなるのだとも言えます。

 私は、聖書から見て、いかなる場合も自殺を選ぶことは決して正しい選択ではないと思っています。しかし、簡単に自殺された方を批判する気はありません。ただ言えることは、自殺は、自分のいのちの最期を決定したのではなく、自殺に至る小さな選択の結果、導かれたゴールだとも言えます。ただしこのゴールという言い方にも含みがあります。すべてを終わらせたい、無にしたい人もいれば、来世に託して無念に甘んじる人もいるでしょう。これで終わりと思って死ぬのかか、先があると思って死ぬかでは全然違います。

 聖書にも自殺に関する記事がいくつかあります。そこには良いとか悪いとかいう評価はなく、淡々と自殺に至った数例の経緯が記されているだけです。今日はその中からいくつかの例を取り上げてみることにします。
 まず、ギデオンの息子アビメレクのお話です。ギデオンは神の召しによってイスラエルに勝利をもたらした信仰の指導者でした。ギデオンには多くの妻やそばめがいたので、全部で70人もの息子がいました。(士師8:30)シェケムのそばめの子であるアビメレクは、野心に燃え、ギデオンの子どもたち70人を虐殺しました。しかし、その中のひとりヨタムは生き延びます。
 そのヨタムの口を通して、神は警告をお与えになりますが、(士師9:16~21)民とアビメレクはヨタムの悪い預言を成就させてしまいます。(士師9:41~57)「シェケムのやぐらの者たち」(士師9:46)というのは、「ベテ・ミロ(やぐらの家の意)の者たち」(士師9:20)のことだと考えられています。彼らも、地下室にいたところアビメレクの放った火によって殺されてしまいました。その後、アビメレクはテベツという町に行き、ここを攻め取ります。その町のひとりの女が、やぐらの上からアビメレクの頭にめがけてひき臼の上石を投げつけて、彼の頭蓋骨を砕きました。アビメレクは道具持ちを呼んで、こう言います。「おまえの剣を抜いて、私を殺してくれ、女が殺したのだと私のことを人が言わないように。」(士師9:54)
 これに似た記事は、サウル王の最期の場面です。(Ⅰサムエル31:1~5)ここでも、サウルは自分のいのちがもう尽きることを知って、道具持ちに殺してくれるように懇願しますが、それがかなわないので、サウルは自ら剣の上に倒れて死にます。
他にも、追いつめられて自らの王宮に火を放つジムリが出てきます。(Ⅰ列王16:15~20)そして、自らのはかりごとが取り入れられず絶望して首をつるダビデの参謀アヒトフェルもいます。(Ⅱサムエル17:23)彼は、新約聖書におけるユダのひな型でもあります。アヒトフェルの死がダビデに深い失望を与えたように、ユダの死もイエスにとっては非常につらいものであったこともわかります。この事に関しては次回触れたいと思います。

 今回お伝えしたかったことの中心は、自殺という死に方を選ぶというのは、生き方の問題だということです。そのような最期に至る日々の選択を積み重ねて来たといことです。
 シャケム人アビメレクに関しても、「神はシェケムの人々の悪を彼らの頭上に報いられた」(士師9:57)ということばがあります。また、ジムリのところでは、「これは、彼が罪を犯して主の前に悪を行い、ヤロブアムの道に歩んだその罪のためであり、イスラエルに罪を犯させた彼の罪のためであった」(Ⅰ列王16:19)とはっきり書かれています。

 しかし、たとえ最期が自殺であったとしても、それは神の誘導の結果ではないということも確認しておきたいと思います。使徒16章には、獄中にあったパウロとシラスの記事があります。彼らは牢の中で足かせをつけられて自由を制限されていたにもかかわらず、喜びに満ちて神を賛美していました。そんな最中、大地震が起こり、とびらが開いて鎖がとけてしまったので、囚人が逃げたものと思い込んだ看守が責任を感じて自殺を図ろうとします。その瞬間、パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」(使徒16:28)と叫びました。
 聖書は、パウロの口を通じて、自殺を思いとどまることを勧めています。死を決意した瞬間であっても、引き返すことは出来ますし、その力は絶えず働いているのです。人生のあらゆる場面での選択を積み重ねて、最期は自殺に至るような道筋は確かに存在します。しかし、自殺を選ぶに至った人生を送ってきた人は、そのあらゆる場面で、神のまなざしを嫌い、神の介入を拒んだのです。

 自殺への誘い、これを聖書は「死のわな」のひとつであると表現しています。また、それは自分の道(人生)をどのように評価するかと深く関わっています。
 「知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる」(箴言13:14)
 「主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる」(箴言14:27)
 「命令を守る者はいのちを保ち、自分の道をさげすむ者は死ぬ」(箴言19:16)
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Commented by meek at 2011-01-16 22:36 x
年明けをまたいでのかなりの遅コメントを失礼いたします。
Saltさん、cozyedgeさん、いつもメッセージの配信の労を感謝いたします。

このメッセージのテーマの深さゆえ、深く心の中をめぐりめぐっていました。
Commented by meek at 2011-01-16 22:37 x
三島氏の件につきまして、Saltさんのブログにもコメント一度書いたのですが、なぜか消えてしまうという謎の現象がおこっていました。何度も試したのに、何度も消えてしまうのです。このコメントももしかしたら消えちゃうのでは?と思いながら書いています。

今では消えていてよかったのではないかと思うようになりました。それは、私が三島氏についてよく知りもせずに書いていた、と気づかされてきたからです。
Commented by meek at 2011-01-16 22:37 x
自殺ということに関して、「その人の選択」という側面と、「その人の隣人がその選択をどのように受け止めるのか?」という二つの側面を思わされました。日本人として三島氏の死をどのように受け止めるのか?それはもっとよく知って熟慮しなければならないことなのだ、と思わされました。

主に油注がれた王であるサウロの死は第二サムエル1章のダビデの心からの悲しみの歌だけでは不十分であったようで、21章14節でサウルとヨナタンの骨がその祖先の墓に埋葬された後に、神はこの国の祈りに心を動かされた、とあります。三島氏はサウロとは違い、神の契約にあるものではありませんが、日本人として三島氏や、国に影響を与えてきた人の死を、きちんと受け止める必要を感じさせられました。
Commented by meek at 2011-01-16 22:38 x
また、創造主から断絶の状態にある人間が、その実存を満たそうとする行為としての「自殺」という理解にはなるほどと思わされました。確かに、与えられた齢をまっとうするよりも、自分の意志をそこに介在させることにより、自分の存在価値を他者に印象付けているのかもしれない、と。そこにあるのはプライドでしょうか。

サウロ王の死は、異邦人による屈辱的な死を避けようとする死でした。自分の遺体のかけらも残らぬように爆破させた織田信長を連想します。

しかし、そのような自分で作り出そうとする実存やプライドが打ち砕かれる時に、はじめて主が与えてくださるいのちを全うすることができるのかもしれません。主イエスの贖いの死は、自殺という手段をとらず、異邦人の手にわたされたものでした。恥をまといさらし者にされたその死は、真に神が与えてくださるいのちを罪びとに与える死であり、復活への種だと信じます。

メッセージを通して、真の、根本的な自殺防止とは、主イエスを通しての神との和解であるということを強く思わされしまた。
Commented by Salt at 2011-01-18 00:03 x

meekさん、コメント感謝します。

神の計画によって「人として作られたもの」が自らその存在を否定する行為は、やはり残念としか言い様がありません。

神と和解することが、不条理な自己という存在との和解にもつながります。

by cozyedge | 2010-11-29 21:26 | message | Comments(5)

使徒の働きは今も続いています。


by cozyedge