12月12日 私と私の家とは主に仕える(約束の地カナン 最終回)

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12月12日     私と私の家とは主に仕える(約束の地カナン 最終回)

 ほぼ月1回のペースで1年に渡って学んできたシリーズ「約束の地カナン」の最終回です。今日はヨシュアの自身の最期のメッセージの中から、お話したいと思います。ざっと振り返ると、第1回「ヨシュアの登場」 第2回「遊女ラハブの信仰」 第3回「ヨルダン川を渡る」 第4回「主の軍の将」 第5回「エリコの戦い」 第6回「アイの戦い」 第7回「日は動かず月はとどまる」 第8回「約束の地の相続」 第9回「のがれの町」 第10回「祭司のつとめ」 そして、今日の最終回を迎えています。

 ヨシュアは、自分の役割の終わりと死を意識して、イスラエルの民に向かって最期のメッセージを民に行います。ヨシュアにとっては、出エジプトのリーダーであるモーセは信仰のモデルでもありました。モーセの場合もそうでしたが、そのメッセージの中心は、「主が何をしてくださったか」ということでした。これは大事なポイントです。良いメッセージは「主が何をしてくださったか」をまず伝えます。「~をしましょう」「信じましょう」「ささげましょう」「宣べ伝えましょう」「癒されましょう」という話が中心ではないのです。まず神の側の話であって、人の側の話ではありません。これからいただく恵みの話ではなくて、すでにいただいている恵みの話でなければなりません。これから体験するしるしや不思議ではなく、すでに完了した御業の話でなければなりません。今日、キリスト教会と名の付いたところでなされているメッセージはヨシュアのそれとどれだけ似ているでしょか。今、指摘したいくつかのポイントについては丁寧に吟味する必要があろうかと思います。

 ヨシュアは、与えてくださった祝福を丁寧に想い出させ、その事実のゆえに主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えることを勧めています。(ヨシュア24:14)
 「もし主に仕えることが気に入らなければ、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも今日選ぶが良い」という表現は、これまでともに苦楽をともにしてきた民に対して語った愛情と責任感のあるリーダーのことばとしては、非常に突き放したものの言い方です。ヨシュアは「一緒に信じていきましょう。団結しましょう」などとは気の効いた甘いことばで語りかけてはいないのです。今日のメッセージのタイトルにもしましたが、ヨシュアは民に優しく呼びかけて、主に従うことを促すことも、強要することもせずに、ただ「私と私の家とは主に仕える」と自分自身の小さな責任の範囲についてのみ宣言しています。言い換えれば、「あなたがたのことなんか私は知らないから、勝手にすればいい」「私は細々とお世話したりしないから、さっさと自立しなさい」ということです。つまり、民の信仰、不信仰はリーダーのヨシュアの責任ではないということです。このように考えると、教会運営なんてことばは消え失せるでしょう。たとえばこのカナン教会に人が少なくなっても、私の責任じゃありません。逆に人が溢れかえっても私の手柄ではありません。ずいぶん無責任に、あるいはお気楽に聴こえるかもしれませんが、そのとおりなのです。本来、他人の面倒を見られるほど信仰は甘くありません。なぜでしょう。それは、信仰は「愛に関すること」だからです。それは「イエスへの愛に関する」ことです。あなたの代わりに荷物を持ったり、お金を払ったりは出来るかも知れません。しかし、あなたの代わりに私が愛することは出来ません。それはあなた自身の心が決め、からだを動かすことだからです。

 私たちも今日ヨシュアの声を聴かなければなりません。私のメッセージでは、しばしば「信仰と群れ」の問題を取り扱ってきました。私は「キリスト教はだめだ。キリストだ」「群れちゃだめだ。主の前にひとりで立て」「神と和解していな者が集まっても、ろくな交わりなんか出来ない。まず十字架において神としっかり和解せよ」と言い続けて来ました。これらすべてのことは、イエスへの愛と関連しているからです。イエスへの愛がない人が罪だらけの兄弟姉妹を愛せる道理はないのです。
 やはり今日も私ははっきり言います。「私と私の家は主に仕えます。(みなさんもそれぞれお好きにどうぞ)」と。
 宗教は、信仰を極めて「依存的」かつ「集団的」なものとしてとらえています。たいていのリーダーはこんな風に言いませんか。「私の言うことを聴きなさい。手を取り合って、皆でともに参りましょう」そして、信徒たちはこう言うのです。「お世話してください。面倒を見てください。相談にのってください」と・・・・。
 そして、リーダーも信徒たちも、お互いを見ては「あの人の信仰はすばらしい」「この人の奉仕はだめだ」などとうわさします。違いますか。いろんな装飾があり、ディテイルは違っていても、宗教なんて大体そんなものです。その本質はほぼ一緒です。
 集める方も、群がる方も、ともに自己中心の浅ましさを隠しつつ、表面はものすごく立派なふりをして、高い価値を追い求めている気になっているのです。だから胡散臭い。
 本当にそういうのが楽しい人はそれを楽しめばいいでしょう。ヨシュアも言っています。好きなものを何でも選んで信じればいいのです。誰も止めはしません。私たちは自由です。自分で選び、後からその結果を刈り取っていただけばいいのです。
 私は人を集めるのも、自分がどこかに群がるのも属するのも大嫌いです。ですから、私は私の言うことに賛同して欲しい、評価して欲しいとは少しも思っていません。私は自分の信じていること以外は信じていないので、自分が信じていることをそのまま話すだけです。信じていないことを伝えることは出来ません。このような言い方をすると、とても嫌な感じでお聴きになっている方も少なくないと思います。しかし、よく読んでくださいね。ヨシュアの言っていることはそれ以上に冷たくて残酷です。もう一度確認のため、聖書を読みます。
 「もしも主に仕えることが気に入らないのなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでもきょう選ぶがよい。私と私の家は主に仕える」(ヨシュア24:15)

 おそらく、そんなヨシュアの突き放したようなことばに、民は人間的には驚きや寂しさを感じたかも知れません。民はヨシュアの問いかけに大してすかさず「私たちも、主に仕えます」と答えています。(ヨシュア24:16)
 しかし、ヨシュアはその答えを素直には受け入れません。ヨシュアはこれを真っ向から否定するかのように「あなたがたは主に仕えることはできないであろう」(ヨシュア24:19)と言うのです。これは、ものすごいことばです。決して「よしわかった。ともに行こう」とは言わないのです。
 では、ヨシュアはなぜ民の答えを聞いて駄目だと判断したのでしょうか。いくつかその理由をあげてみましょう。まず、我々ことばで答えていることです。「私たち」が主語になるようでは駄目なのです。何度も言います。主の前のひとりが基本です。誰かを巻き込んではいけません。狭き門は、横に誰かいると通れないのです。さらに、「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対そんなことはありません」と言っています。自分たちの忠誠心や奉仕を拠り所にしているようでは間違いなく、先々に待っているのは裏切りと絶望です。
 続いてヨシュアの答えにも注目してみましょう。
 「主は、聖なる神、ねたむ神であるから」あなたがたは主に仕えられないと言っているように見えます。民の二心を許さないというのが、ヨシュアの見方です。この時点ですでに民の心は自分たち自身に向いています。自分たちの信仰、自分たちの歩み、自分たちの祝福です。
 ヨシュアは厳しく忠告しますが、民は強く打ち消して誓います。「いいえ、私たちは主に仕えます」と。
 この3度の信仰告白は、新約聖書におけるペテロとイエスの十字架前後のやりとりと重なって見えます。ペテロは「たとい全部の者がつまずいても、私は決してつまずきません」「たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは申しません」(マタイ26:33,35)と宣言しますが、自分の誓ったこととは正反対の行動をとってしまいます。

 そうです。人は自分の思っている通りになんて行動できないのです。しかし、ペテロの忠誠心が甘かったのではありません。思っている通り、誓った通りに行えたとしても、それには価値がない場合もあると知らねばならないでしょう。つまり、もっと気合いの入っている人は、主君の為に殉じたり、自らの信念のために命を投げ出したり出来るという話ではないのです。たとえ、命を差し出したとしても、それは信仰じゃないのです。愛がなければ、持ち物全部を貧しい人に与えても、からだを焼かれるために渡しても何の役にも立たないとさえパウロは言っているではありませんか。逆に言えば、愛がなくてもそういうスーパーマンみたいなことが出来る可能性があるということです。パウロが言っている愛は、一般的な宗教が言う愛ではありません。何度も言いますが、聖書の中で大切な愛とはイエスであり、イエスへの愛です。決して神抜きの人類愛ではありません。それは人間中心主義(ヒューマニズム)です。神は「ねたむ神」だからあなたがたには無理だとヨシュアが言ったのです。自己や神以外のものへの愛や執着があれば、信仰を全うすることは出来ないのです。ペテロとイエスのやりとりはもう一度あります。それはイエスの復活後です。(ヨハネ21:15~23)
 イエスは3度ペテロに、「あなたはわたしを愛しますか」とおたずねになりました。ペテロは心を痛めつつも、「主よ。私があなたを愛することをあなたはご存じです」と答えます。イエスは2度アガペーの愛で愛するかを問い、ペテロはフィレオーの愛で愛することをあなたはご存知だと答えます。3度目のイエスの問いかけはフォレオーですが、ペテロはやはり同じように答えています。非常に興味深いやりとりです。ペテロはイエスを裏切るまでは、イエスを愛すること、また誰よりも愛し抜くことに自分の信仰があると思っていましたが、復活後は違いました。裏切った自分を裏切る前から知りながら、全く同じ愛で愛してくださっているイエスの愛の中に安らぐこと、この御方に罪も愚かさもすべてを知られていることにこそ安息があるのだと言っているのです。
 この素晴らしいやりとりの後でも、ペテロはやはりペテロですね。ヨハネについて「この人はどうですか」(ヨハネ21;21)とイエスにたずねています。イエスの答えは毅然としたものです。「それがあなたに何の関わりがありますか」(ヨハネ21:23)
 ヨシュアのメッセージとの共通点が見られます。ペテロとヨハネは同じ信仰を持っていてもそれぞれに導きは違うのです。信仰は愛です。群れで愛することなんて出来ません。「私は私」「あなたはあなた」です。「主の前のひとり」が原則です。

 ヨシュア記の終わりは、ヨシュアの埋葬ではありません。そうではなく、非常に興味深いふたつの埋葬の記録で締めくくられています。そのひとつはヨセフの埋葬です。
 ヨセフは死の間際に兄弟たちに遺言して、主が約束の場所へ導いてくださったときには自分の遺骨をそこへ持って行ってくれと頼んでいたのです。それから数百年の時を経てイスラエルがエジプトを脱出するとき、モーセはヨセフの遺骨を携えて出発しました。そして、ヨセフの子孫にわりあてられたシェケムにあるヤコブの墓所にこうして葬られたのです。
 ヨセフが臨終のときに自分の埋葬について指図しうたことは、彼の心の置き所がすっと何処にあったのかを示す深い信仰の告白でもあったことがわかります。「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました」(ヘブル11:22)とあるとおりです。ヨセフは波瀾万丈の末にエジプトで王位に次ぐような立身出世を遂げても、その心はいつも約束の地に向けられていたのです。
 この世との関わりを断つことを良しとし、世の仕事を軽蔑する自称献身者の皆さんは、自分の信仰の健やかさを検診することをおすすめします。
 もうひとつは、大祭司エルアザルの埋葬です。エルアザルは大祭司アロンの三男です。モーセとアロンは、出エジプトのリーダーでしたが、二人とも「約束の地カナン」には入ることが許されませんでした。それで、ヨシュアがモーセの後継者となり、エルアザルがアロンの後継者となったのです。ヨセフの埋葬とヨシュアとエルアザルの死と埋葬は、エジプトに行き、そしてエジプトから帰る旅の終わりを表しています。ヤコブの時代には約束の地にろくでなしの兄弟がいて、エジプトにヨセフがいました。そして約束の地には異邦の民がその罪が限界に達するまで住み着いていた。ここにエジプトと約束の地の関係と神の摂理が見えます。
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Commented by 硬派銀じ郎 at 2010-12-16 06:27 x
きっついことを語られますね^^
うちの牧師には聴かせられません。しかし、私は大好きです。

このシリーズでたくさんのことを教えられました。聴き続けることでささやかですが、一つの思い、願いを主から与えられました。
内容は主と私のことなので、また、ときがきたらお話しさせてください。

みことばをとりつがれる働きに主とSaltさんに感謝します。
ありがとうございました。休息も主にあることです。たまにはゆっくりしてくださいね。
Commented by 電気屋です。 at 2010-12-16 20:50 x
確かにきつく感じますね。でもそれも神であり、
また、そうでない神の一面もありますから。主は一筋縄でいかない方ですね。
今回はヨシュア記のまとめにふさわしい内容で今日の私にも同じ言葉が与えられています。最後まで主は面倒な私の面倒をみてくださいます。それは私が信仰があるとかでなく単純に私が主に使えるからです。ホントゆっくりして頂戴。
Commented by Salt at 2010-12-18 12:39 x
やさしいいたわりのおことば、ありがたく受け止めております。
年末はたっぷり脱力させていただきます。
メッセージに関しては、キツイことを語るのもけっこうキツイです。もっと耳障りの良い話が出来たらいいのですが、今年最後のメッセージがちょうどクリスマスになりますが、さらにキツイ話になりそうです。
by cozyedge | 2010-12-12 23:48 | message | Comments(3)

使徒の働きは今も続いています。


by cozyedge