2011年1月22日 自殺について②(ひねくれ者のための聖書講座22)

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2011年1月22日     自殺について② (ひねくれ者のための聖書講座22)

 「自殺」というテーマでお話するのは、あまり気乗りのするものではありませんが、あえて3回に分けて、しかも年をはさんでお伝えしようとしています。
 前回お話した内容を簡単に振り返ってみましょう。「自殺」という死に方を選ぶというのは、生き方の問題だということでした。つまり最終的に自ら死を選ぶ人は、そのような最期に至る日々の選択を積み重ねて来たということです。確かに私たちの心が弱り果てるとき、「自殺」への誘惑は誰にでもあります。これを聖書は「死のわな」であると表現していましたね。また、それは自分の人生をどのように評価するかということと深く関わっています。
 「自殺」は決して神の誘導の結果ではありません。そして、当然のことながら、いのちを与えてくださった、そして今この瞬間も生かしてくださっている神は、「自殺」を思いとどまることを勧めています。死を決意した瞬間であっても、引き返すことは出来るし、その力は絶えず働いているのです。最終的に「自殺」に至る人生を送ってきた人は、そのあらゆる場面で、神のまなざしを嫌い、神の介入を拒んだのです。

 さて、今日は「ユダの死」について考えていきたいのでが、実は聖書の記述は矛盾だらけに見えます。
(マタイ27:1~10)(使徒1:16~20)
 イエスが総督ピラトにあっさり引き渡され、罪に定められたことを知ると、ユダは後悔して報酬として受け取った銀貨を祭司長たちに返そうとします。しかし、それは受け取られず、ユダはその銀貨を神殿に投げ込んだ後、自ら首を吊りました。銀貨は血の代価であるため神殿の収入にはされず、「陶器職人の畑」を墓地購入の資金とされ、その土地は「血の畑」と呼ばれるようになったと書かれています。(マタイ27:1~10)これは12弟子のひとりである取税人マタイの記録です。
 一方では、12弟子ではありませんが、福音書を書いたルカは使徒の働きの中でこう書いています。
 「ところが、この男は、不正な報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ちて、からだはまっぷたつに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった」(使徒1:18)ルカはこれをペテロに語らせています。
 「聖書は一言一句神の霊感を帯びた書物で間違いがない」と言うのなら、当然、このふたつの記事についても合理的な説明が求められます。
 ユダが後から後悔して首を吊ったことは、マタイが書いているだけで、他の福音書記者は書いていません。ルカが記したペテロの証言によれば、ユダの死因は自殺ではなく、他殺あるいは不慮の転落死ともとれます。ペテロの口ぶりからは、あたかも不正や裏切りの報いとしてそういう最期をむかえたのだというニュアンスさえ感じます。このあたりの矛盾も懐疑論者や異端論者のツッコミどころで、だから、「聖書は信用に足りない」あるいは「ユダは神のシナリオの協力者だった」などという意見がまことしやかに語られるのです。みなさんはどうお感じになりますか。

 私は、聖書の無謬正を信じる立場ですから、このふたつの記述がどちらも真実であるとして整合性を見出す他ありません。マタイは、ユダは「後悔して首を吊った」と書いていますが、「首を吊って死んだ」とは書いていません。ということは、生きていたのでしょうか。そうでなければ、別の土地を買って、もう一度死ぬことはありませんから・・・・
 しかし、それはどう考えても不自然です。やはりユダは首を吊って死んだのです。けれども、首を吊ったくらいではらわたがさけて内蔵が飛び出ることはありません。「まっさかさまに落ちて、はらわたが全部とびだしてしまった」というユダの無惨な結末については、エルサレムの住民全部に知れ渡ったと書いてあるので、物凄く有名だったということです。おそらく当時の人たちは、イエスを裏切ったユダは「悔やんで自殺したのだ」というよりは、「裏切った結果、ひどい姿で死んだのだ」という印象を持っていたはずです。エルサレム中の人がそれを知っていると書いてあるので、間違いなくそれは伝聞によるものです。
 つまり、はらわたが飛び出ているところを見たわけではないのです。エルサレム中の人の認識が正しいとは限らないでしょう。ペテロだっておそらく見たわけではないのかも知れません。だから、どこから、どんな高さから落下して、何が原因でからだが裂けたのかは、誰かから聞いて伝えたのではないかと私は考えます。ペテロは状況の説明としては不十分な話です。何しろペテロやヨハネの話ぶりは彼らの無学さを明らかにするほどだったのです。しかし、その証言は決して信憑性を損なうものではありませんでした。ここがポイントです。なぜなら、ペテロはユダの死について、本当にそのように聞いて、そのように認識していたのです。この当時、新約聖書はまだありません。ルカは、自分の福音書のふたつ前に「マタイの福音書」がおかれることも、ふたつ後に「使徒の働き」が来ることも知らないのです。当然、ペテロの語った内容に手を入れなかったし、マタイが何を書くかも知らないのです。
 ユダの遺体はしばらく木につるされたまま放置され、あるとき、落下し、また鳥や獣に内蔵を引きずりだされたのでしょう。直接の死因をマタイが書き、遺体の損傷についてルカが書いたと読めば筋は通ります。もうひとつ気になるのは、銀貨30枚の使われ方です。マタイの記述によれば、ユダの自殺に至る行動は極めて迅速ですから、その銀貨は確かに神殿に投げ込まれたのでしょう。神殿に投げ込まれた銀貨はおそらくシェケルでしょうから、1シェケル4デナリで計算すると120デナリです。約120万円くらいの金額で果たしてどんな土地がどれだけ買えたのか知りませんが、それはイエスを売った血の代価なので、神への献金としては使えないということで、陶器師の畑を買って旅人の墓地にしたのです。ところが、ルカの記述では、自分の屋敷のための土地を買っていたことも書かれています。裏切ったことを死ぬほど後悔している人間が自分の屋敷のための土地を買うでしょうか。銀貨30枚を得てから首を吊るまでの間に土地を買う十分な時間があったとは思えません。しかし、確かに「不正なことをして得た報酬で地所を手に入れた」と書いてあります。この両方が真実であるとすれば、ユダはその地所をイエスの代価である銀貨30枚で買ったのではなく、その前からくすねていた金で買っていたのでしょう。ユダがいつも金入れから金を盗んでいたことは、ヨハネが記しています。(ヨハネ12:6)そのように考えると、この土地購入に関する矛盾も解けます。

 ここまでは何となくすっきりしてきました。しかし、まだ腑に落ちないのは、そもそもイエスはそんなユダをどうして12弟子に選び、さらにいつも金を盗んでいるのにきちんと指導もせず、挙げ句に裏切りを促すかのようなことばをかけるのかという点です。私は、このユダの裏切りと死について自分なりに理解できたことが、神の愛を受け入れる大きなきっかけとなりました。私はこのユダについての謎が解けるまで、神の義は認めざるを得ないが、愛などさっぱりわからなかったのです。
 私が話したことがみなさんの心に届くかどうかはわかりませんし、初めからそんな疑問を持たない方にとってはどうでもよいことかも知れませんが、とにかくそのことをお伝えしようと思っています。
 聖書を読めば、誰かがイエスを裏切ることがすでにシナリオとして出来上がっていることに、私はまず何とも言えない不快感と不信感を持ちました。「銀貨30枚で売られる」とエレミヤはご丁寧にイエスが生まれるよりずっと前に預言までしているのです。その役割を担う誰かを神が欲しているとしたら、イエスの十字架なんてとんでもなく臭い芝居だと思いました。しかも、それを聴いて感動するような心まで作って、私たちに組み込んでいるしたら、神さまというのは何て嫌みな奴なんだと思いました。
 「泣いた赤鬼」という童話があります。青鬼は人間と友だちになりたい赤鬼のために、自分が悪役を演じて赤鬼に花を持たせ、その後も人間にあやしまれないようにと旅に出るというストーリーです。この筋書きは青鬼が提案するから泣けるのであって、赤鬼が書いたストーリーを強引に青鬼に演じさせるとしたら、泣きも笑いも出来ません。そんな感じがしたのです。「裏切る弟子まで用意しておきながら、神が人の為に十字架に架かって死んだなんてあまりにも臭すぎる。簡単に感動なんかしないぞ」と、ひねくれ者は思っていたのです。

 さて、ユダは銀貨30枚でイエスを売りましたが、裏切りによって得た銀貨をそのまま神殿に投げ込んで首を吊ります。一連のユダの行動は非常に不可解で、その最期は極めて悲劇的です。すべてはイエスとの関わりの中での選択でした。まさに「イエスをどう見なすか」がユダの人生を決定したのです。これも、「イエスを裏切ったら、こんな悲惨なことになるぞ」と脅されているような感じがします。
 ユダがイエスを裏切った理由としては、昔から多くの説があります。「熱心党的な思想を持っていたユダはイエスを政治的な王としようとしていたが、宗教的にしか行動しないのを見限ったためだという説や、ユダはイエスにとっては特別な弟子で、ふたりの間には密約があり、イエスの計画を実現するためにイエスを売り渡したのだという説などがあります。また、これは裏切りの理由ではありませんが、ユダは暗闇でイエスに口づけしたときに入れ替わって、身代わりに十字架に架かったのだという話まであります。
 私は「ユダは金欲しさでイエスを売ったわけではない」と思っています。裏切るために裏切ったと言ってもいいでしょう。イエスを裏切ることを目的とするなら、お金をもらうというのは手段にすぎません。ユダはイエスを銀貨30枚と交換しました。つまりイエスは銀貨30枚以下の値打ちだと見なしたのです。イエスが語った数々のことばも、多くの奇跡も、契約も、弟子としてイエスと過ごしたすべてをたった銀貨30枚で売ってしまったのです。その交換に意味があるのであって、お金が欲しいわけではないのです。
 しかし、師であるイエスを裏切ったのはユダだけではありません。すべての弟子たちがイエスひとりを残して逃げたのです。ペテロもヨハネも裏切りました。彼らはみな決して裏切らないと誓ったのに裏切ったのです。ユダは誓いませんでした。裏切るニュアンスも異なっています。
 
 ユダは自分の裏切りに「自覚的」でしたが、弟子たちは自分の裏切りに「無自覚」でした。ユダはイエスの可能性を試したのです。言わば実験です。それは、「イエスが罪に定められたのを知って後悔し」(マタイ27:4)と書いてあることからわかります。どうやらユダは「たとえイエスは敵の手にわたっても、簡単に罪に定められることはない」と考えていたようです。逆に自分がきっかけを作ることで、イエスは何か「こと」を起こしてくれるという期待があったのかも知れません。とにかく、イエスは何らかの手段でその局面を突破するはずだと思っていたのでしょう。他の弟子たちも、皆がイエスを知らないと言ったり、姿を隠したりしたのは、急にいのちが惜しくなったからではなく、「自分が思っていた展開とは違う」からです。イエスの十字架上での死については、イエス御自身の口から何度も聞かされていながら、当時の弟子たちには全く理解出来なかったのです。それは、まさに思惑通りではない展開でした。イエスの力と神性を信じているからこそ、その失望は大きかったのです。「こんな事のために、自分たちは職をなげうって、家族を二の次にしてついて来たわけじゃない」と思ったはずです。「あの糞ローマに磔にされて無抵抗に死ぬ」なんて考えもつかない最低の終わり方です。だから、彼らは逃げて隠れたのです。彼らの信じた展開通りの大義であれば、華々しい玉砕を遂げたはずです。
 
 さて、この世界に、自分の思惑通りに生きている人がいったいどれだけいるでしょうか。私たちの人生は、多くの場合、考えもしなかったような事ばかりに巻き込まれてしまうものです。しかし、「思惑通りにならないこと」は神の恵みです。キリストと無関係の私の計画がそのまま成功して、何の不自由もなく幸せな一生を終えるとしたら、それはとてつもなく不幸なことで、それは神の思惑ではありません。神の思惑は私たちがつまずき、助けを求めることです。救いの必要を感じることです。
 ユダと弟子たちの違いはそれほど大きくはありません。すべての弟子がイエスを裏切ったのです。イエスは誰もが思っていたような御方ではありませんでした。イエスは弟子たちに裏切られましたが、イエスもまた弟子たちの期待を見事に裏切ったのです。決定的な違いは、自分が窮した場面でイエスを必要としたかどうかです。そのとき、裏切り者の自分の背中にイエスのまなざしを感じ、イエスの必要を感じたかどうかです。(ルカ22:61)ペテロはイエスのまなざしを感じ、変わらぬ愛を覚えたとき、男泣きに泣きました。イエスのまなざしを感じたら、人は決して自ら死んだりはしません。
 
 そもそも人は神を裏切ることが出来るのでしょうか。イエスは弟子たちの何に裏切られたのでしょうか。
力や信頼度からいって神が人に裏切られるというのは馬鹿馬鹿しいことに思えます。飼い犬に手をかまれるという諺以上の圧倒的な力や立場の差があるからです。愛ということを抜きにしては裏切りそのものが成り立たないのでうす。ユダはイエスに「あなたがしようとしていることを今すぐしなさい」(ヨハネ13:27)と言われてそうするのですから、ユダはイエスの予想通りの行動をするわけです。それなのに、イエスはユダに対してこう語っています。「人の子を裏切るような人間は呪われます。そういう人は生まれなかった方がよかったのです」また裏切る瞬間のユダには、「友よ。何のために来たのですか」(マタイ26:50)
 これらのことばを見るとき、イエスにはユダの末路は見えていても、最後の最後までユダに期待していたことがわかります。イエスはユダを愛しているのです。ユダはたとえ裏切っても弟子であり、いや裏切るからこそ友であり、いつでも引きかえすことが出来たのです。そうでなければ、神は愛などではなく、陰湿極まる暴君であり、イエスにはユダを裁く資格はありません。イエスは愛です。裏切り者であるユダを知り抜いて、最後の瞬間まで彼を友として受け入れてくださった御方は、今日も世界中のすべての絶望した人たちに、「死ぬな、生きよ」「裏切っても救われよ」と叫んでおられます。自殺してはいけません。
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Commented by meek at 2011-02-01 21:59 x
Saltさん、cozyedgeさん、メッセージ配信の働きを感謝します。

ラストの「死んではいけません」という言葉が心に響き、胸に迫ってきました。

「イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしはだれが死ぬのも喜ばないからだ。-神である主のみ告げーだから、悔い改めて、生きよ。」

Commented by meek at 2011-02-01 21:59 x
神ご自身が、イエスご自身が、どれほどの張裂ける痛みをもって叫んでおられることでしょう。神の和解を受け入れるように懇願しておられることでしょう。

ユダさえも愛された主の愛に、今、死のうとする人さえも、心を向けることさえできるならば(心の方向転換=悔い改め)、そこにいのちが用意されているのに。

そして、その神の張裂ける痛みの愛は、主の死と復活とひとつとされることに招き、父と子と聖霊の喜びの愛の交わりへ入れられてゆくことを信じます。

語られるSaltさんご自身が、今までに関わられた人々の中で、残念ながら最悪の選択を選んでしまった人々がおられ、言葉に表しきれない痛みをもって語っておられるか、ということを思わされます。主がそのSaltさんの痛みを通しても語っておられるように感じました。

このメッセージを通しても「自殺」ということをタブーとせず、日常においても話題になり、向き合っていくことを通しても、死を選ぶ人が減るのではないかなと思っています。
Commented by Salt at 2011-02-03 22:36 x
meekさん、コメントありがとうございます。

自殺は本当に苦しいテーマです。でも、3回目を語ろうと思っています。

クリスチャンは「地の塩」として、パウロが獄中で叫んだ「自害してはいけない」を心の声とする必要があると感じます。
Commented by 電気屋 at 2011-02-10 20:36 x
ペテロがイエスを知らないと言った後の
イエスのまなざしの解釈だけでも人によってずいぶん差があるんだと思わされます。
その差は、神をイエスをどのように思っているかで大体決まります。(私自身は同意見ですが)

ルカ19:21 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。
あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』
19:22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう

エゼキエルなどを読むときいかに、神が「生きろ」そして「しぬなよ」となさって来たかわかります。
私なりの考え方では今の所、十字架への道は神の自殺と思えないのですが、さて次回聞かせていただいた後どの様な事になるか待ちたいと思います。ありがとうございます。
Commented by Salt at 2011-02-11 10:22 x
イエスのまなざしには、イエスからのメッセージの他に、自分の心が映し出されるのでしょう。ピラトさえ、イエスのただならぬ空気に気づき、何とかこれを救いたいと思いました。しかし、この方に自分が救われたいとは思わなかったのです。

イエスのまなざしに何を読み、この御方とどのようにかかわるかを決めることが、永遠を選択することになるのですね。

コメント、感謝します。
Commented by 硬派銀じ郎 at 2011-02-16 22:31 x
ひねくれ者のための…とは言え、泣いた赤おにからの説明など、どんだけひねくれているんですか。

仕事上、心理的なことを学ぶと、主の十字架への歩みがどれだけ人にとって必要なものか、教えられます。それさえも微々たる学びですが。
イエスさまのまなざしに何を読み、どうかかわるか、本当にそう思います。
Commented by Salt at 2011-02-18 01:38 x
メッセージとして普遍化するために、ひねくれ度は調整済みなんですが・・・

リアルSaltは、もっとひねくれてます。
Commented by meek at 2011-02-19 21:00 x
「ひねくれ」を聞いて連想するのは、海外ではCSルイスとか、無神論を極めようとして聖書にまでチャレンジした結果、無神論が玉砕してしまい、信仰者になったことなどです。

CSルイスもその「ひねくれ」度を存分に発揮した著作・文章を通して、同じく多くの無神論者が信仰に至る道しるべとなったと思います。
Commented by meek at 2011-02-19 21:02 x
今回の「ユダ」をどう理解するか?という点に関して、俗説になりますが、ある共通した意識があり、それは「泣いた赤おに」の説明にも存分にあらわれているように感じました。
Commented by meek at 2011-02-19 21:07 x
その俗説とは、なぜユダが死んだのか?という問いに対して、あることに気付いたから、というものです。あることとは、神の救いの計画の成就のためには、裏切り者の存在が必要であり、それが自分だった。自分はイエスを裏切ることによってイエスが本気でローマを倒してくれると期待していたのに、そんな自分の心さえも神は読みとられ、自分が永遠の裏切り者にしたてあげられた、ということ。
Commented by meek at 2011-02-19 21:11 x
子どものころ読んだ、萩尾 望都の「百億の昼と千億の夜」もそのような筋書きだったと思います。

しかし、イエスがユダを本気で愛していたという事実は、その俗説を根本から打ち砕くと思います。
Commented by meek at 2011-02-19 21:21 x
1980年代後半から90年代にかけて、日本のキリスト教会にカウンセリングブームのようなものがありました。その代表的な存在だったT牧師は、イエス様がユダを愛していた、というところにとどまらず、「ユダは救われました。」とメッセージし、当時議論が起こったそうです。今回のメッセージではそうは言っていないということもポンイントだと思いました。また、十字架と復活に結びあわされた者への神の愛と、滅びゆく存在に対する神の愛とは質の違うものだとも思います。
Commented by Salt at 2011-02-20 23:16 x
meekさん、コメントありがとうございます。
信仰を無視して、神の愛を拡大解釈する方法は、サタンの常套手口ですね。さまざまにかたちを変えて教会を混乱させていると思います。みことばから離れると、敵の手に落ちますね。
Commented by むさし at 2016-03-20 01:28 x
ユダの死は他殺です。
犯人は11弟子の誰かでしょう。四福音書に「後に裏切ったユダ」とイスカリオテのユダを裏切り者と決めつけ、それは初代教会の通説になっていたと思われます。身を挺してもイエスを守るべき弟子達が一目散に逃げてしまったのです。師に対する負目がユダひとりを悪者に仕立てることで、かろうじて己の立場を繕っていたのではないでしょうか。死人に口なしです。
Commented by cozyedge at 2016-03-21 10:26
Saltです。むさしさん、コメントありがとうございます。裏切り(命惜しさに逃げたこと)に関しては、弟子全員が同罪だと言えるでしょう。むしろ「絶対裏切らない」と誓っておきながら裏切った点は、自分を認識していたユダ以下です。それを他殺と表現するのが正確かどうかは別として、実は「信仰」というのは、そこから始まるのです。人の忠実さや正直さとは全く異なる次元に原点があります。
Commented by むさし at 2016-03-27 00:31 x
Saltさん
ユダの死を他殺と断定することはできませんが、四福音書と使徒言行録に記されているユダに関する記事を、松本清張流の推理を働かせれば、ユダに対する憎しみ(殺意)を抱いた可能性のあるのは残された弟子たちではないでしょうか。実は「信仰というのは・・・」以下をもっと解りやすくご説明くださいませんか。むさし
Commented by lastsalt at 2016-03-27 12:14
Saltです。むさしさん、ありがとうございます。「使徒の働き」を読むと、弟子たちは「お前が言うなよ」的なひどいことばでユダを罵っています。弟子たちも十字架までは、いわゆる「忠臣藏的な感情」でイエスとなつがってきました。ユダだけがもう少し覚めた認識だったと思います。ユダはただお金が欲しかったわけではない。この地上に置いても大して価値のない奴隷の対価と交換してキリストを裏切りたかったのだろうと想像します。イエスはそんなユダの心情をも理解し、完全に赦し、受け入れる準備がありました。それを拒んだのです。他の弟子たちは、バカながらも取りあえず赦しは受け入れたというところでしょうか・・・・・12弟子は、自分で言っているように、出自や育ちの背景は違おうが、「無学な普通の人」です。すべての人間は罪人です。誰も自分の素質や行動や熱心によって神に受け入れられるということはありません。「全く救われるに値しない私を受け入れて下さる神を信じること」が信仰なのだと聖書は語っています。信仰は人から神へのベクトルではなく、神から人への啓示のベクトルだと考えます。イエスの差し伸べた手を握り返すか、手を離すか・・・というような選択だと言えます。
by cozyedge | 2011-01-26 16:36 | message | Comments(17)

使徒の働きは今も続いています。


by cozyedge