2011年2月27日 自殺について③ (ひねくれ者のための聖書講座23)

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2011年2月27日     自殺について③ (ひねくれ者のための聖書講座23)

 自殺についてのメッセージの最終回です。
 自殺を選ぶというのは、哲学的な行為だと言えます。それは自分のいのちや人生に対する評価であるとともに、他者のいのちや全世界のあらゆる価値に対する評定です。人間はさまざまな他者との関係性の中で生きているわけですが、この世界から己の存在を消し去ることによって、そうした関係性を一方的に立ち切ることです。自殺は、家族や友人をはじめとする多くの人たちの関係性を否定する行為です。相手の承認を得ることなく、これまで受けてきた恩恵や未来の可能性さえも捨てるのです。

 ルカ15章の有名な「放蕩息子のたとえ」(ルカ15:11~24)を思い出してください。今日は、放蕩息子と呼ばれる弟の部分だけに注目します。弟は遠い国へ旅立って放蕩し、父の財産を湯水のように使い果たします。大ききんがおこって食べるものにも困り始めたころ、ある人のもとに身を寄せますが、さらにひどい目にあいます。そして、我に返ります。これが罪人である私たちが父なる神と和解するひとつのモデルとなっていることはよくご承知だと思います。

 エペソ人への手紙2章によれば、この遠い国のある人とは、「空中の権威を持つ支配者」のことです。この霊の支配のもとで私たちはボロボロに傷ついてきたのです。遠い国はこの世です。その流れは父からどんどん離れて行く方向性をもっています。そんな御怒りを受けるべき状態からの救いは、父の愛と恵みによるのだとパウロは強調しています。それは、「雇い人のひとりにでもしてもらえたら」と願った弟が、愛する息子として歓迎される場面を重なります。

 ここで大事なことは「我にかえる」ことです。「我にかえる」とは「父の存在を思い出すこと」と「父との関係を回復しなければならないと思うこと」のふたつを意味しています。しかし、その前提として、自分は父から離れてはどうしようもなかったと思い知ることが含まれています。このたとえを読んで、「まさに私は放蕩息子のようにひどい状態だ」と思わない人は、救いを得ることは出来ないでしょう。「私はこれほどひどくはないが、何かが足りない」という程度の認識では、小さな十字架を飾りのように胸につけてせいぜい道徳的なキリスト教徒になるのが関の山でしょう。「永遠のいのちを得るためには何をすればいいですか」とイエスに質問した金持ちの青年タイプです。キリストともに自分自身も十字架上で死ぬこと。これが信仰の出発点です。私たちがこれから何をするかではなく、十字架のキリストと信仰によってつぎあわされていることが大事です。「もし、私たちが、キリストにつぎあわされて、キリストの死と同じようになっているなら、必ずキリストの復活とも同じようになる」(ローマ6:5)とパウロは言っています。

 つまり、私たちは「神から離れている私はどうしようもない」ということを知るために生きているようなものです。この絶望感は救いのためには不可欠です。神から離れたあらゆる活動は、ひとことで言えば「放蕩」です。つまり空中の権威を持つ支配者が作りだした流れに乗っかって快適に暮らしていても、滝壺に向かう波の上でサーフィンでもして浮かれているようなものだと言えるでしょう。
 自殺する人は絶望しています。その点では浮かれている人より遥かに優れています。鍵は絶望の原因と結果をどのように結びつけるかにあります。離れていたから駄目だったから、つぎ合わされなければならないのです。
 さて、父はなぜ身代を分けてやったのでしょう。息子が遠い国で放蕩することを知らなかったのでしょうか。もちろん父は知っていました。息子が遠い国で飢えて絶望することは父の想定の範囲だったのです。父は息子が我に返り、自分の意思と選択によって帰宅するのを待っていたのです。神は私たちを憐れもうとして、「ある人」のいる遠い国を絶望のための装置として許容されているのです。
 息子はなぜ身代を求めたのでしょう。そんなすばらしい父を持ちながら、なぜ遠い国に旅立ったのでしょうか。息子には父の愛が理解できないのです。絶対しかない世界ではものの価値はわかりません。だから、息子には自由が与えられ、自由の誤った選択によってどんどん不自由になっていきながら、真理に従うことだけが本当に自由なんだと悟るのです。
 この父からの視点と息子からの視点は、愛と自由について考える上で非常にわかりやすいモデルだと思います。

 もう少し説明を加えます。
 仮に人間が、失敗しない完全無欠の被造物として創造されていたとしましょう。そんなアダム1号、2号、3号やエバ17号に神の愛がわかるでしょうか。私はわからないと思います。仮に人間が神に逆らうことのない命令を100%実現できる忠実なしもべとして創造されたとしたら、神はそんな被造物を愛しく思うでしょうか。神はそれほど愛しくは思わないと私は考えます。
 つまり、神と人間が愛し愛される関係である為には、「御自身の血による贖い」というプロセスがどうしても必要なのです。その贖いの前提として、人間が神から離れた遠い国で絶望することは不可欠なのです。神は私たちに期待するのは遠い国で一旗揚げることではありません。使い果たすことです。満たされることではありません。飢えることです。しかし、この放蕩と飢えの中で自らいのちを断ったおしたら、どうでしょう。「この国には自分のことをわかってくれる人はいない」「私はもう駄目だ」と自らいのちを断ったとしたらどうでしょう。それが自殺です。確かに、絶望に関する認識は間違ってはいません。しかし、その絶望が与えられた意図が見えていません。この国での絶望は「絶望のための絶望」ではないのです。確かな希望につながる絶望です。父に関するかすかな希望は失望に終わりません。光は闇の中に輝くのです。

 冒頭で、「自殺は哲学的な行為である」と申し上げた意味がわかっていただけたと思います。ある国で身代を使い果たして、その絶望によって死ぬことは身代を与えた父の存在を否定することです。このたとえでは、息子が「身代を分けて欲しい」と父に申し出たことになっています。当然、息子は自分の財産は父からもらったものだと知っています。これを使う度に意識することはなかったでしょう。特に財産が底をついてくるとその乏しさばかりが気になったでしょう。しかし、そのお金の出所はあらゆる瞬間に冷静になれば思い返すことが出来ました。
 そうです。人間は誰でも父である神の存在と、自分が今持っているあらゆるものは「いただきもの」や「あずかりもの」であることを実は知っているのです。このことをもし知らないとしたら、人は何物をも拝むということはしないでしょう。願うことも祈ることも、何かに後ろめたさを感じて責められることもありません。神がないなら、まことの信仰も偶像礼拝もなく、賛美も狂気さえも、存在しないのです。人間以外の生き物は、拝みも狂いもしません。従って自殺もしません。(ローマ1:18~22)もし、人が神を知らないとしたら、知るすべがないとしたら、逆に神は人を責める理由がありません。

 自殺にはどこか英雄的な一面があります。それは、十字架は神の自殺であり、自殺はその行為自体に、十字架の雛型としての表現力を持っているからです。それゆえ、自殺は自分以外の何物かの犠牲めいた意味を感じさせるのです。次のイエスのことばには、まさに十字架は神の自殺であると思わせるニュアンスがあります。私はこのことばに非常に大きな衝撃を受けました。
「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちをとった者はいません。わたしが自分かたいのちを捨てるのです。わたしにはそれを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:17~18)
 これは、自殺の手段として殺されることを選んだのだという意味です。殺されるけれど、自分から死ぬのだと念を押しています。死ねというのは父の命令で、命令どおり、自分から死ぬからこそ私は父に愛されるのだと言っています。しかも自分は死ぬ権威だけでなく、復活する権威もあると言っています。イエスがもし神の子でないとしたら、彼は狂人です。
 イエスは後にこの権威について、ローマの総督ピラト語りました。(ヨハネ19:1~11)ここでは、イエスを死刑にする十字架の執行権は無効で、自分の自殺権が有効だと言っているのです。

 自殺しなくても、私たちは100年もすればほとんど死んでしまいます。罪があるから、生まれながらに死刑囚なのです。だから、死ぬまでの間に、神から離れた遠い国で絶望するのが人間にとって唯一意味のある仕事です。我に返り父を思い出して家に帰る。そのことが一番大事なことです。遠い国でやりくりして何とか生き延びることも、そこで父を思い出さず死んでしまうことも、実に残念です。「キリスト教では自殺は罪ですから」とか、そういうレベルの話ではありません。罪がある者が自殺するのと、罪のない者が自殺するのでは意味が違います。これが、イエスが語った「いのちを捨てる権威」なのでしょう。
 罪人のいのちは失われたいのちだから、「捨てる権威」などないのです。そのいのちで何かを贖うことも出来ず、罪から来る報酬としての死を迎えるだけです。パウロは「罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と言っています。(ローマ6:23)

 ここで、死と対比して書かれているのは、キリスト・イエスにある永遠のいのちであり、それは自らの力で勝ち取るものではなく、神のくださる賜物です。
 放蕩息子のたとえの場合、最初に分けられた身代によっては、息子は愛を感じませんでした。しかし、後からいただいた着物や指輪や靴とともに与えられたものには、父の大きな愛を感じたのです。この神の企てにこそ大きな意味があります。
 「私たちが神の子どもと呼ばれるために、―事実、いま私たちは神の子どもです。―御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは御父を知らないからです。」(Ⅰヨハネ3:1)
 自殺は神の領域を侵し、神の栄光を奪い、神の計画を侮り、神の用意された恵みを無にするのです。真の信仰に生きる者が自殺を否定するのは当然のことです。

 神は大きな御方です。神のみこころは多くの場合、私たちの考えとは異なっています。私たちは自分の子どもたちに対しても、この神のみこころを思い、御父の愛をもってあたるべきだと考えます。私たちは自分の子どもに関して、決して遠くの国へなど旅立つことがないように、放蕩しないように、飢えることがないように、そして絶望しないようにとあらゆる手を打つのではないでしょうか。しかし、父は身代を分け与え、息子に好きにさせます。苦しみの中で、自分で考え、自分で選ぶこと、贖いを望むことは意味があるのです。
 なぜヨブは病気になり、なぜヨセフはエジプトに売られ、なぜダビデはサウルに追われたのでしょう。なぜペテロはイエスを裏切り、なぜパウロはイエスの弟子を迫害したのでしょう。答えは自分の可能性に絶望するためです。
 今さらこんな言い方もどうかと思いますが、もし、神がおられるとしたら、その結果、遠い国で絶望して大量の息子たちが自殺したとしても仕方がないとお考えなのです。私はこのような表現でしか、現状を説明できません。逆に言えば、その絶望の中にあって我に返るということは、極めて高い価値があるのです。
 自殺することは、愚かなことです。人間にとってこれほど愚かな選択はありません。私たちがこの世の自分のいのちを自分で終わらせることによって、私たちの存在そのものを完全に消去出来るならば、自殺という選択にも多少の意味があるかも知れません。しかし、私たちの霊は、肉体を終わらせてもいつまでも残るのです。しかも、肉体を犯すことによって贖いを失った霊は永遠に傷ついたままです。
 このような選択をしようとしている人がいるなら、止めるべきです。
「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」(使徒16:28)これは、パウロとシラスが獄中で職務を果たせず責任をとって今にも自殺しようとしている看守に向かって叫んだことばです。
この世にはクリスチャンを縛り付ける様々な牢や足かせがあります。しかし、そのような中にあってパウロとシラスは絶望することなく、淡々と神に祈り、賛美していました。根性で逆境を乗り越えているのではありません。キリストとつながっているからです。このようなクリスチャンは世に対して語る力を持っています。パウロとシラスのことばを受け入れた看守は、救いを受け入れたことによって、家族にもその救いが及んだことが書かれています。(使徒16:29~34)
 自殺する人は、家族のことを考えに入れません。たとえ、これまでの感謝を書き残したとしても、身勝手な自分の心の整理のためであって、そんなものは偽物です。救われる人こそが、真に家族を愛することが出来、歓びを分かち合うことができるのです。
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by cozyedge | 2011-02-27 22:29 | message

使徒の働きは今も続いています。


by cozyedge