2011年3月6日 エペソ人への手紙 第3章

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2011年3月6日      エペソ人への手紙 第3章

 エペソ人への手紙第3章からともに分かち合いましょう。
 読み始めると、まず印象深く目に飛び込んでくるのは、「キリスト・イエスの囚人」ということばがです。
 疑いもなくパウロという人はキリストの啓示について誰よりも深く理解し、福音の奥義を理解し、その解き証しをした人です。
 しかし、パウロのキリストにある人生の再スタートを切るまでは、彼自身の競走のたとえを借りるなら、ピストルの合図とともにトラックを全速力で逆走したようなものです。パウロは能力においても、道徳性においても、熱心さにおいても他の追従を許さぬ飛び抜けた存在でした。それだけにその失敗や絶望のスケールも半端ではありません。その「目からうろこの回心」の経緯は、あらためて説明するまでもまく、皆さんのよく知るところです。
 その後も、誰よりも熱心に働いたにも関わらず、彼は囚われの身となり、「主の囚人」となるのです。もちろん地上にキリストの牢があるわけでなく、パウロは自分で「主の囚人」と自称しているだけです。パウロは誰が見てもローマの囚人なのです。しかも、「あの人は死や投獄に当たることは何もしていない」「この人はもしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに」(使徒26:31~32)というアグリッパやその場に居合わせた人たちの発言からしても、彼らは、パウロの身を拘束することはあきらかに罪状の現実にはふさわしくないものであることと、融通の利かない頑固さの結果、自分にとってより不利になる結果を招いた愚かさに気づいていたのです。

 だとすれば、パウロ自身も、自分の証のまずさが引き起こした結果を後悔するという誘惑にかられたかもしれません。しかし、パウロは手紙の中では一貫して、自分の囚われの苦難は福音の前進のためであり、異邦人のためであると語っています。
 「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや私が主の囚人であることを、恥じてはいけません」(Ⅱテモテ1:8)
 パウロはさらにこう言っています。
 「オネシポロの家族を主があわれんでくださるように。彼はたびたび私を元気づけてくれ、また、私が鎖につながれていることを恥とも思わず、ローマに着いたときは、熱心に私を捜して見つけ出してくれたのです。―かの日には、主があわれみを彼に示してくださいますように。―彼がエペソで、どれほど主に仕えてくれたかは、あなたが一番よく知っています。」(Ⅱテモテ1:16~18)
 つまり、パウロがこの地上で辱めを受け、自由を奪われることは、異邦人を試す装置として機能したのです。囚人と関わりを持つことは大きなリスクを負ったでしょうし、神からの選びを受けてそれほどの真実を握っている者が、牢に囚われているということは、マイナスの条件でしかありません。パウロが荘厳な会堂を建て、多くの弟子や信徒を引き連れ、豪華な外套をまとい、講壇の上から、メッセージをして、皆が拝聴したわけではないのです。心ある人たちが、パウロを訪ね、獄中で彼がしたためた手紙を、兄弟たちの集まりに回したのです。現在のようにネット上の操作でワンクリックでダウンロードしたのではありません。エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンの手紙、そして、テモテへの手紙第2は獄中で書かれたと考えられています。

 もし、パウロが2度に渡る投獄で打ちひしがれ、いつも不機嫌で、迷いや悩みの中にあり、弱音を吐いている状態であれば、彼にキリストの奥義の啓示はなかったでしょう。逆に地上の自由が奪われたことで、霊的な自由が開かれたのです。パウロの神の律法に対する真摯な態度、旧約聖書の知識、そしてこの世における知性と博学は、彼を間違った方向へ走らせただけでした。
 しかし、神の啓示を開く偉大な手紙を書くにあたっての必要な能力は、そのトラックを逆走していた時代に身につけたあらゆる力が大いに役にたったのです。その類い稀なる能力は他者に勝ち誇り賞賛されるためではなく、ただキリストの奥義を解き明かすことのみに用いられるのです。
神さまの方法は実に不思議です。

 さらに、パウロには外見上のつまずきも与えられていました。これも本人にとっては決してありがたいことではありません。
 「私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたが軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、また、キリスト・イエス御自身であるかのように、私を迎えてくれました」(ガラテヤ4:15)とパウロは言っています。
 パウロが握っている真理に近づくには、そのような人間的ないくつかの壁を越えなければなりませんでした。

 私たちの主の場合はどうでしょう。
 「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」’イザヤ53:1~3)と預言されているとおりでした。

 今日も同じです。真理は華々しい人生の成功者の中にはほとんどないでしょう。
 「キリストを信じたら、こんな風に人生は成功する」「ここに幸福な人生の秘訣がある」とキリスト教は宣伝したとしても、聖書の真理はそうではありません。
キリスト教的にはその黎明の時代に、神は最も有能な働き手を長期にわたって牢獄にたたきこむのです。これが神の方法です。
 同様に、主は今も世界の各地で多くの兄弟姉妹を養っておられます。意外な人、忘れ去られてしまいそうな小さな人の中にキリストのいのちが宿っています。主は、それぞれをある種の囚われの状態、つまり、さまざまな「人間的な不自由」をお与えになって、その不自由の中で本当の自由を明らかにされています。その弱さの中に、御自身の強さ、全能の知恵と力を表し、愛を注いでおられます。一人ひとりがそれぞれの環境の中で教えられている真理があります。それは宝石のように価値のあるものです。主の前に麗しい輝きを放っているはずです。

 ある人が囚われの状態に置かれることによって、周囲の人たちとの間に絶妙な距離感が生まれます。その囚われの状態が、周囲の人たちの渇きや動機を試すからです。
 パウロをキリストのように迎えたガラテヤの人々を、牢獄にいた自分をたずねてくれたオネシポロの家族を、その信仰のゆえにパウロは賞賛しています。このようなハードルを神はさまざまなところに置かれているわけです。

 一例を挙げるなら、不治の病という囚われの中にある兄弟がいたとします。しかし、彼はいつも健やかな人以上に自分のからだについても絶えず神に感謝をし、歓びに満ちているとします。
 ある人は言うでしょう。「彼はもう望みがないから現実から目をそらしているのだ。神にすがるしかないからね」と。
 また、別の人は言うでしょう。「彼の証は真実だ。彼は病気を通して人にとって本当に価値あるものを見出したのだ。私もそのことを知りたい」と。
 このように、その不治の病にいる兄弟の証は、彼を評価する周囲の人々の人生観や、神の前における態度、真理に対する渇きを試すのです。

 仕事で時間がないことも、囚われの状態の一つだと言えるでしょう。家族に仕えることも、自由を奪われるでしょう。そんな自分が与えられている環境をどうとらえているかが大事なことです。それをただ単に不都合だ、不自由だ、不便だと嘆いているだけなら本当に残念なことです。主のしもべであるなら、地上において自分の置かれている状況を、周囲の人たちの霊的な利益と結びつけて考えるのが標準です。
 「ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようにお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。」(エペソ3:13)
とパウロは言っています。
 しかし、現実には、私には自由がない。解放がないと言っては、乞食みたいに、あちこちの恵みを探し歩く人が何と多いことでしょうか。

 聖書の中心はイエス・キリストです。この人となられた神がどのような御方であったかということが何にもまして重要です。すぐれた教理も字面を追っているだけでは意味がありません。それを伝え解き明かす人の偉大さも重要ではありません。
 ですから、真理に付随するさまざまな装飾をそぎ落とすために、イエスは何も持たず、何も残さず、裸で十字架に架かられたのです。パウロもまた、いくつかの手紙を残し、パウロ本人は多くの兄弟からの誤解を受けながら、この世を去りました。
 パウロが語っているように、本当に神のスケールを知った人は、自分を実際以上に大きく見せようなどと言う企ては思いつくはずもないのです。自分に対する評価はどうでもよくなってくるのです。
 パウロは、キリストの測りがたい冨の前に自分は一番小さい者だと言っているのであって、他の兄弟と背比べをして卑下しているのではありません。(エペソ3:8)

 「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知を遥かに越えたキリストの愛うぃお知ることが出来ますように。こうして神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:18~19)とパウロは言っています。
 私は、日常生活において、ここで語られている広さ、長さ、深さという神のスケールを感じることはとても大事だと思います。つまり、私たちの感覚ではなく、「神の定規」「神の枡」「神の天秤」で現状をはかりなさいと言っておられるのです。

 「神の定規」「神の枡」「神の天秤」とは何のことでしょうか。それはみことばです。みことばですべてをはかる習慣をつけることです。私たちはいつも自分の経験や感覚でものを言います。しかし、信仰の人はすべてをみことばによってはかるのです。
 パウロは私たちより遥かに知識や経験が豊かです。彼の知識や経験が教えることは何でしょうか。それは、「今の囚われの状態が如何に惨めで絶望的か」ということです。パウロはそのことに無感覚なのでしょうか。いいえ。彼は誰よりも今自分がローマの地上的権威に対して無力であるかを思い知り、囚われの身から解放された自由を夢見ていたでしょう。しかし、それ以上にさらにリアルなのは、彼の霊の奥深くに与えられた神の啓示でした。パウロが与えられた神の啓示はあまりにも素晴らしく圧倒的だったのです。しかし、それらの力をフル稼働させてたどり着いたのは大きな挫折でした。パウロのはかりでは、ユダヤ人の中のユダヤ人だけしか決して神に近づくことも赦されることもないと信じて来たのです。パウロの目には、偶像を拝み、律法を無視してデタラメに暮らしいる異邦人などは獣のように見えたことでしょう。
 しかし、この世界の始まる前から、キリストが異邦人を含む、全人類をキリストにあって救い、ともに家族としてひとつに結びつけようとしているというご計画に触れたのです。
 パウロの衝撃は、ことばに出来ないほど大きいものだったに違いありません。
まさに、神は私たちの願うところ、思うところをはるかに越えて、豊かに施すことの出来る御方なのです。
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by cozyedge | 2011-03-06 21:26 | message

使徒の働きは今も続いています。


by cozyedge