2011年3月20日 神の主権と人権(ひねくれ者のための聖書講座24)

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2011年3月20日     神の主権と人権 (ひねくれ者のための聖書講座24)

 2011年3月11日、マグニチュード9.0という記録的な大地震がありました。さらに地震に伴う津波による被害や火災などで多くの尊い人命が失われました。被災地では行方不明のままの方や、避難所生活を送られている方々が大勢おられます。そして、福島の原発事故の影響がどうやら簡単なことでは済まないようです。21世紀を迎えてからの日本にとっては最大の国難とも言える状況です。
 私たちに出来ることは何でしょうか。また、人として何をするべきなのでしょう。クリスチャンであれば、こんなとき、何を祈り、どうふるまえばよいのでしょう。
 これは簡単そうで、それほど簡単な問題ではありません。今日はこの地震のことにふれないで別のテーマについて話すことなど出来そうにないので、やはりそのことについて、私の思うところをお話します。

 私は奈良県の南部で開催されるアースデーならsouthというイベントを手伝っています。今年で6年目になります。「地球を大事にしよう」ということなら、どんな立場の人とも思いを共有しやすいからです。
信仰のない方々とは「和して同ぜず」で常に一線を引いてはいますが、同じことをやりながらも、私の考え方やスタンスの違いを感じてくれる方には感じてもらえるといいなと思って続けています。

 私はその種のイベントでよく言われがちな「地球にやさしく」とか、「ガラスの地球を守れ」などというキャッチフレーズには強い違和感を感じています。地球にやさしくしてもらって守られているのは人間の方だからです。私は、地球は人の「ゆりかご」また「住まい」として神が与えてくださったものだから正しく管理するべきだとは思います。イエスのたとえ話においても、主人はしもべたちの管理責任を問いただすために戻って来られます。これがいわゆるキリストの再臨です。私たちがいなくなっても地球は残ります。私たちは地球を借りているのです。

 また、今回の出来事を「天罰」だの何だのと発言したり、やたら世の終わりの兆候として煽る人たちの発言に、私は怒りを覚えます。それらの発信は完全に間違っているわけではいないだけに、慎重にことばを選んで発言するべきだと思います。聴く者もまた心して吟味しましょう。
 地震や津波や台風や竜巻や落雷は天災と言われます。天災の「天」は人の知恵や力が及ばないという意味だけではありません。クリスチャンであれば、そこに主の主権が働いていることを知っています。まず、一番大事な教訓は、「主権者は誰か」ということを知ることです。そして、クリスチャンは、被災者の立場に立つことよりも、主権者である方のみこころを問うべきでしょう。そして、その思いを自分の霊の中で共鳴させるような祈りが求められています。その為には、被災地の情報以上にみことばに触れるべきだと思うのです。「神はわれらの避け所。また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海の中に移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても」(詩編46:1~3)自然災害を思わせる書き出しから始まる詩編46編の結びにはこんなことばがあります。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」(詩編46:10)
 もう一度言います。天災の最も大きな意味は、「主権者が誰か」という問題を認識させるためであるということです。特定の宗教ではなく、この地球と私たちのいのちの主権者を思い出し、その方の思いに触れること、私たちの本質的な在り方や生き方を問うことこそ、今、求められていることです。そのことを己に問うことをせず、被災地を上から目線で見下ろし、傷つき苦しむ人の痛みを顧みることなく、「天罰だ。我欲を津波で洗い流せ」などと発言する無神経には呆れるしかありません。又、終末をちらつかせ恐怖心を煽り、信仰を核シェルター代わりに宣伝する宗教にも大いに疑問を感じます。

 イエス・キリストが人としてローマの時代に登場したには非常に重要なことです。それは、法律、政治、経済など、人の営みにおける飽和点が、すでにローマにあったからです。しかし、そこには化石燃料の大量消費はありませんでした。船はあっても飛行機はなく、馬車はあっても自動車はありませんでした。オートメーションの工場も流れ作業もなく、化学兵器も核もありませんでした。当然、原発の事故もありません。
 ケータイやパソコンに時代になっても、人は大昔と同じように、毎日、食べて、寝て、排泄するのです。
人の在り方や生き方を問うことは、ただ漫然と生きることよりも大事なことです。揺れがおさまり、波が引いた大地に立って、こうした人としての根本的な在り方を考えることが出来たなら、災いはただ災いには終わらないと思います。
 津波がひとつやってくれば、地境もなくなり不動産も流れていきます。私は、ビルが崩れ、家や車が押し流されていくニュース映像を私は何とも言えない思い繰り返し見ていました。あの映像は被災地の人たちだけでなく、それを見たすべての人に人間の築いたあらゆるもののもろさとはかなさを悟らせるメッセージを含んでいます。さらに原発の事故のニュースに触れればその思いを強くするはずです。単純に「これは大変だ」「はやく元通りに復興しないと」というのは、あまりにも考えが単純すぎます。
 人はパンだけで生きているのではありません。水やあたたかい食べ物、寒さをしのぐ毛布は大切です。仮設住宅の建設も始まりました。それも良いことです。しかし、神戸の震災後、ライフラインが元通りになって町が完全に立ち直っても、仮設住宅で孤独死したり、自殺したりする人は後を絶ちませんでした。もっと大事なものがあります。それは神のことばです。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と書いてある。」(マタイ4:4)
 イエスは石をパンに変えることが出来ます。実際、小さなパンを分かち合って数千人を養われたこともありました。救援物資は必要です。しかし、もっと必要なのは神のことばなのです。この国に欠乏しているのは神のことばです。
 人類は我が物顔で地球に線引きし、国を作り、王を立てて、文明を築いてきました。しかし、それはエデンの園を追放された人類が再び神に立ち返るための舞台として、暫定的に神の許しのうちに用意された装置にすぎないのです。パウロがアテネ人たちに語ったメッセージを読めば、まさにそのことがわかりやすく語られています。(使徒17:24~31)
 
 自然界の出来事は、神が自然界に与えた法則によって、神の意志とは無関係に繰り返されます。しかし、神は主権者として、そこに自在に介入し、人の信仰による応答と駆け引きしながら、調整されることも聖書を見れば明らかに書かれています。

 旧約聖書の中には、今にも難破しそうな激しい暴風に見舞われた船の中で平気で寝ている男が出て来ます。ヨナという預言者です。船に乗っていた人々はそれぞれの神に祈りますが、やがてこの突然の暴風は、ヨナが主の命令に逆らったことが原因で起こったことだと知ります。人々は恐れてヨナを問いただしますが、ここでヨナが彼らに答えたことはちょっと信じがたいような内容です。ますます荒れ狂う海に自分を投げ込めば暴風はおさまるというのです。ヨナは神のことばを預かる預言者です。彼は主権者が誰であるかを知っているだけでなく、その主権者がどのような御方を知っていました。その御方は、ヨナが知っている以上の御方であることがさらなる展開の中で明らかになっていくわけです。
 つまり、主権者である方、海と陸を造られた主との関係性が自分の運命を決めるということです。(ヨナ1章)ヨナは自分の預かった神のことばには効力があること、その力あることばを語るなら、ニネベの町の人たちが悔い改めるであろうことが予想できていました。主は憐れみ深いので、ニネベの人々が悔い改めれば赦してしまうであろうことを知っていました。それが気にいらなかったのです。
 主がそれを怒っておられることもヨナは知っていました。自分が従いさえすれば、暴風には意味がないとわかっていたのです。だから、「私を投げ込めば海は静まる」と言い切れたわけです。この時点で、すでにヨナは主に対してものすごい信仰をもっています。信仰というと根拠もないのに信じる望みの強さだと思われるかも知れませんが、神という御方との個人的な付き合いの結果培われた信頼感だと言えるでしょう。ヨナはこの後、イエスの墓の中の3日間を予表する大魚の腹の中で過ごします。ヨナの予想どおり、ニネベの人々は悔い改め赦されます。そのことを不愉快に思ったヨナはさらに町のなりゆきを見極めようとします。そこで、主は暑さに悩むヨナにとうごまの木を日よけとしてお与えになりました。そして、主はヨナの気にいったそのとうごまに一匹の虫を送って枯れさせます。主はとうごまを奪われたヨナに焼け付くような東風を吹き付けて苦しめます。ヨナはとうごまを惜しみ、ついに死ぬことを願います。その時、主は言われました。
「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか」(ヨナ4:10~12)
このことばの中には、主権者は単に理由なく天罰をくださないことが示唆されています。その町におこる事はその町の状態と無関係ではないのです。主は御自分の主権の及ぶひとつひとつの町に対して個別の思いがあることを知ることができるのです。さらに、とうごまも、虫も、魚も、船も、海も、風も、そして太陽も、すべては私たちの主権者は誰で、その御方がどのような方かを知り、味わうための舞台装置にすぎないということです。

 被災された方の多くは、いのちがあることや、当たり前の幸せを奇跡の連続のように感じられていることでしょう。それは、災害にあう前の毎日の中ではなかった気づきかもしれません。亡くなった方々への哀悼の気持ちを込め、黙祷することは宗教的であると意義をとなえる人はいません。誰もが頭を垂れ、目を閉じて、憐れみを乞い、幸せを願うその御方はいったい何者なのでしょうか。その御方にこそ、しっかり感謝し、悔い改めをしなければならないのです。
 ある町で起こることは、町の状態とは無関係ではないと言いました。確かにそうですが、それは、東北や関東の人たちが他の地方の人たちよりも神の前に悪を行ったために、天罰を受けたのではありません。イエスの時代にイスラエルで起こった不慮の事故による災難について語られたことばがあります。「それらの人たちは他の人たちよりも罪深いわけではない。誰であれ、悔い改めないなら、みな同じように滅ぶのだ」(ルカ13:1~5)と言うのです。
 その後でイエスは「実のならないいちじくのたとえ」を話されました。つまり、私たちの在り様は、神に立ち返る悔い改めのための猶予期間として、番人であるキリストのとりなされて保たれているようなものだとイエスはおっしゃっているのです。
 ですから、どの地方で生きている人も、津波など起こり得ない奈良県民も、皆ともどもに、神の前に心を低くすることが求められているのです。このような規模の大きな地震は間違いなく、「時のしるし」また「神の警告」として与えられています。例えば、アモスという預言者が語ったことばは、その時代の誰もが知る地震の2年前に預かったものであると記されています。それは、さらに未来のキリストの再臨の日のしるしとも重なると言われています。(アモス1:1)(ゼカリヤ14:4~5)

 しかし、その主権者たる御方との関係性は曖昧にされたままで、義援金や支援物資は次々に届けられ、今は復興の見込みが薄いように思われる町々でさえ、時間とともに回復していくのでしょう。
 それは悪いことではありませんが、良いことではありません。先人が語ったとおり、「地獄への道は善意が敷き詰められている」のです。必要なのは、人と人とが、神さま抜きでつながり助け合うことではありません。ひとりひとりが、主権者を思うことです。イエスを主とすることが求められています。
 しかし、イエスがもう一度お越しになるときまで、ノアの日のように、人々は飲んだり、食べたり、娶ったり嫁いだりしていると書かれているので、不自由がひとつずつ克服されると、大事なことを忘れていくようです。(マタイ24:37~39)

 今日は「神の主権と人権」という主題にしましたが、人権については何も話しませんでした。基本的人権は法や国家が守ってくれるものではありません。人権は、神の神とすることによって自動的に保障されます。神の国とその義を第一とすれば、必要なものはみな与えられる、これが主権者の明確な約束です。その優先順位に本当に気づくことができるなら、すべてを失っても損はない。これが今日のメッセージの要点です。
「大水のとどろきまさり、海の力強い波にもまさって、いと高きところにいます主は、力強くあられます。あなたのあかしは、まことに確かです。聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。主よ。いつまでも。」(詩編93編5節)
 天からしるしを与えられているクリスチャンは、語っておられる御方を拒むことは赦されません。
 揺り動かされることのない御国を与えられていることの感謝を胸に、慎みと恐れをもって、自分の置かれた場所での奉仕をするべきです。(ヘブル12:25~29)
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Commented by 硬派銀じ郎 at 2011-03-24 06:31 x
昨夜のNHKのニュースで、「津波が襲来しています。高台へ避難してください。」と災害放送をした町役場女性職員が行方不明となり、その方の両親が訪ね歩いて安否を確認している様子が放送されました。最近入籍されたようで、母親の涙に、観ていてことばも出ない、出せない、と思いました。
この時期に震災から語るのは、人間的にはしんどいことと思います。でも「主権者である方を知る。」ということに本当の慰めと立ち上がる力があると思います。この時期にみことばをとりついでくださったことに感謝します。
震災の被害にあわれた方のことを祈るとともに、主権者である神、について私自身が教えられなけれればいけないです。

「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」(哀歌3章)
Commented by Salt at 2011-03-24 20:09 x
ニュースのコメンテーターみたいなことを言ってるのは楽です。

今回はけっこうしんどかったですね。主権者である方の前に私自身が不従順でデタラメなので、よけいいしんどかったのかも。
Commented by ワッフルの旦那です。 at 2011-04-02 15:13 x
ヨナと神との関係が素晴らしいですね。自分はヨナよりはるかに良い立ち位置で神と付き合える条件を与えられていながら彼ほど主との個人的な関係を築けているか考えさせられました。
確かにヨナがふてぶてしく見える。それはどれだけ主が憐み深いと知っているからこそであって私が「あんな人間は、許されるべきではない。」と考える相手でも、考えを変えるなら私から見て簡単に赦してしまう様に思えるからですね。さらにその人たちの飼っている家畜にまでも、、。


地震対策は津波に対する想定は原発はどうするべきか日本の経済は子供たちの未来は安全は、、、
問題はさまざまですが、答えは単純ですね。
第一とすべきものを第一とするということ
賽の河原で石を積み上げる事は意外と楽しいものですが、第一にすべきことではないですね。
再確認させていただき感謝です。
Commented by Salt at 2011-04-02 23:21 x
ワッフルの旦那さん、コメントありがとうございます。
今回ヨナを読み直してみて、預言者もまた主に仕えつつ、主を教えられる姿がとても印象に残りました。

Commented by 硬派銀じ郎 at 2011-04-10 15:12 x
できれば…というか正直な気持ちはぜひ…、ダビデから語られたメッセージを聴きたいので、ダウンロードできるようにしていただけませんか。過去のメッセージを聴いています。お願いします。
Commented by cozyedge at 2011-04-10 22:37
今晩は、硬派銀じ郎さん。
過去のメッセージの持ているものは全てネットに反映するのは、いまのところちょっと大変ですが、DVDにデータでよろしければお送り致します。御住所をお教えくだされば送らせていただきます。
by cozyedge | 2011-03-20 22:15 | message | Comments(6)

使徒の働きは今も続いています。


by cozyedge