2011年5月29日 エペソ人への手紙第5章

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2011年5月29日     エペソ人への手紙第5章

 エペソ人への手紙5章からのメッセージです。
 4章以降は具体的なあゆみについて書かれたものだと申し上げました。それだけに、本質を読み誤ると、この箇所はとてつもなく窮屈で押しつけがましいものに感じてしまうので、注意が必要です。地上においては、神と人、キリストと教会の関係性を現す雛型が満ちていますが、その中で最もすばらしいものは、親子と夫婦の関係です。5章の前半は、親子としての関係性の中で、(エペソ5:1)(エペソ5:8)後半は夫婦の関係性の中で(エペソ5:22)(エペソ5:25)呼びかけられたものであることを意識していただきたいと思います。親子の関係は「いのち」と「相続」の関係です。夫婦の関係は「贖い」と「契約」の関係です。子は親の一切を受け継ぎます。妻は贖いによって夫と一体なのです。このことをしっかり受け止めましょう。
前半の「神に倣う者となりなさい」は、「神に愛されている子どもですから」という前提があって初めて成り立つものです。また、後半の夫と妻との関係においても、「互いに仕えあいなさい」は「キリストに対する畏れをもって」が条件です。「神に愛されている」というしみじみと内側から溢れてくるような実感がなければ、神に倣うことなど到底出来るはずもなく、キリストに対する畏れがなければ、夫婦が互いに仕えることなど不可能です。

人間が不完全で義人には程遠い存在であることは、神が最もよく知っておられます。「義人はひとりもいない」のです。そして、「人の心は何よりも陰険でそれは治らない」というのが、まことの医者である御方の見立てですから、手遅れの患者がいくらあがいても仕方がないわけです。私たちは何か大きな失敗したから悔い改めるのではなく、生まれてきたときから悔い改めるべき存在であるという事実を受け入れなければ、この5章の勧めも、すべて地上の道徳のレベルで話が終わってしまいます
鍵は何でしょうか。それは、「今は、主にあって」(エペソ5;8)ということばです。
私たちが世の光であるのは、「電源」であるところの主とつながっているからです。私たちは「電球」みたいなものです。ちゃんと然るべき場所に固定され、「電流」を供給しなければ、何の役にも立たないこわれやすいガラスに過ぎません。
新共同訳では、「今は、主に結ばれて」となっています。キリストとのつながりが、私たちが世の光であることの根拠です。光の結ぶ実は「善意」と「正義」と「真実」であるとパウロは言っていますが、(エペソ5:9)これは本来私たちが持っていないものばかりです。

私たちはキリストと結びついているときに限って、私たちから出たものではない実を結ぶことがあります。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)とイエスはおっしゃっています。「ペテロだから」「ヨハネだから」「パウロだから」出来ることなど何もないということです。
そして、この結びつきの確かさを保障するものが何であるのかをきちんと確認しておく必要があります。ヨハネの福音書では、イエスと離れては効力を失うことが、「電源と電球」ではなく、「ぶどうの木とその枝」にたとえられています。
「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえらえます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子になることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」(ヨハネ15:6~8)
イエスにとどまることは、イエスのことばが私たちにとどまることです。つまり、信じる者が「みことばをどのように掲げているかということ」が最大のポイントです。信じてから何年経つとか、何かを奉仕をしているとか、いくら献金したとか、欠かさず礼拝に出席しているとかいうことは、実を結ぶこととは何の関係ありません。みことばがとどまっている人のことをイエスは「弟子」と呼んでいます。キリストの弟子の特徴は、「すでにほしいものが与えられている」という実感をもって感謝しているという特徴があります。「うまくいっていない」「何か足りない」と感じているのは、みことばを忘れ、現実に注目し、世に足場を置く人の特徴です。私たちが主にあって結ぶ実は、父の栄光と直結しています。これも大事なポイントです。キリスト教的勧めを謙虚に実行する人たち自身の個別の徳になると、これは他の宗教と全く同じです。人の目にどれほど大きい実に見えても、それが個人の栄光になっているなら、それはイエスが御霊によって結ばせた実ではありません。しかし、人の目にはささやかであっても、みことばが結実した永遠の実があります。それは、イエスに感謝し父に栄光を帰すものです。
この箇所では、行いが光と関係づけられて書かれていますが、元々、「みことばが人の足のともしび」であって、その足跡が、みことばの結実としての行為につながるのです。その良い行いは、信者の徳ではなく、良い行いを備えてくださった神のわざとして明らかになるためのものです。ヨハネはこう言っています。「悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみ出されることを恐れて光の方に来ない。しかし、真実を行う者は、光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが明らかになるためである」(ヨハネ3:19~21)要するに、その行いが「神にあってなされること」が重要なのです。明らかにされたのは、みな光です。私たちがこの光の下で誇りうるものを何か持っているでしょうか。持っているわけがないのです。こういうことを丁寧にチェックすることをパウロは勧めています。
「賢くない人のようにではなく、賢い人のように」(エペソ5:15)「機会を十分に生かして、悪い時代だから」(エペソ5:16)「愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい」(エペソ5:17)などとくどいほど、言われています。さらに「良い行い」は神の作品の一部です。(エペソ2:10)「ペテロだから」「ヨハネだから」「パウロだから」できることは何もないと言いましたが、神は御自身の作品としてのペテロ、ヨハネ、またパウロを完成されると思うのです。神は弟子を企画品にはされません。
もう少しだけ前半部分について考えてみましょう。強調されているのは、「きよくあること」です。律法における「きよい」動物とは、反芻し、かつ、ひずめが分かれていているものです。反芻はみことばを思いめぐらすこと、ひずめが分かれているのはこの世とは分離したあゆみを指しています。たとえば、牛や羊です。牛について考えてみます。牛は草ばかり食べてどうやって脂肪やタンパク質を産むことが出来るのでしょうか。牛乳をつくることが出来るのでしょう。考えたことがありますか?草はセルロースなどの消化されない植物繊維を多くふくんでいます。牛は草にふくまれている栄養分をほとんど利用できません。植物繊維を分解する酵素をもっていません。実は牛の胃袋に住んでいる微生物が草を分解し発酵させて栄養を生み出しているのです。牛は1日に8時間を反芻に費やします。反芻により草をさらに細かくし、微生物による分解を受けやすくしているわけです。みことばはある意味では、草みたいなものです。このモデルにおいては、微生物は聖霊の働きと見ることが出来ます。その分解や発酵の助けなしに、栄養を生み出すことは出来ないのです。牛の胃袋から人為的に微生物を取り除くと、牛は草を消化出来ずに死んでしまいます。
また、「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」(エペソ5:19)とあります。詩と賛美と霊の歌です。これは、岩波訳を見れば、詩は詩篇、賛美は賛歌、霊の歌は霊的な歌となっています。詩がただの詩ではなく、詩編であること、霊の歌と賛美を区別しているところも、よくわかる気がします。詩は単なる人の感想ではなく、賛美はただの音楽ではありません。
さらに、「互いに語り」とあります。私はこのことばに注目します。「賜物のある特別な人だけが聴衆に向かって一方的にメッセージをせよ」とは書かれていません。勿論、パウロは他の誰もが書けるわけではない手紙を書きました。しかし、それはパウロが特別な弟子として崇拝されるためではなく、イエスを中心にした兄弟たちの交わりのためです。私たちは御国へ行っても、パウロや12弟子や、賜物のある兄弟たちに神のみこころについて噛み砕いて解き明かしてもらうのでしょうか。そんなことはあり得ないし、この地上でも、何年経っても似たような信仰生活を続けていてはいけません。
 私は、これまで、ふたつの教会で15年間にわたってメッセージを担当してきました。カナン教会を立ち上げてからでもすでに8年が経過しています。
実はこの会堂の契約があと2年で終わるので、それを機に新しい展開を・・・と考えていたのですが、今回の未曾有の大地震や原発の放射能漏れ事故などが、改めていろいろなことを考えるきっかけとなりました。結論から申しますと、今年の上半期6月の末をもって、カナン教会として発信するSaltのメッセージをいったん停止しようと考えています。一定の耕しと種まきになるような働きはひとまず節目を迎えたような気がしているからです。
メッセージは大切な要素ですが、教会の活動や礼拝の中心は、メッセージをすることや聴くことではないはずです。私のメッセージが供給され続けることによって、「各自がみことばに養われる」というクリスチャンとして最も健やかな当たり前の営みを阻害しているとすれば、それは非常に残念なことです。
主にあるすべての語り手がそうであるように、私は日常の経験の中に影として現されたリアルな霊的事実を聖書に基づいてお話してきました。聖書の預言的メッセージは単なる解き明かしではありませんので、私のささやかな人生と切り離してはあり得ないものです。したがって、不特定多数の聴き手に届く、私の人生の文脈から切り離された1回きりのメッセージは、いささか礼儀も品性にも欠けた雑なものだと言えます。そうしたことはずっと気がかりではありました。
かつてどの時代に顔と顔をあわせることなく、神のみことばが伝達されたでしょうか。インターネットによってつながり広がる世界は、確かに大いなる可能性があります。しかし、今一度、誰もが主にある交わりとは何であるのか、主はいかなる礼拝を求めておられるのかを慎重に考え直して欲しいのです。私自身も淡々とハードスケジュールをこなす中で、見えなくなっていたこと、わからなくなってききたことがあります。そこで、「エペソの手紙」のシリーズの終了をもって、いったん働きをストップし、いろいろなことをリセットして、主権者の前に新たなる召しを伺うことにします。「互いに語れない」ような関係性を広げるつもりはありません。これまで私が語り続けてきたのは、一方的に聴いていただくためではなく、「互いに語り合う」ためです。こうした呼びかけにこたえ、私を訪ねてくださった方、連絡をくださった方、祈って支えてくださった方には、感謝の気持ちでいっぱいです。

エペソの手紙に戻りましょう。後半には夫婦のあり方について書かれています。結婚式などでもよく読まれる箇所です。しかし、これはキリストと教会の関係性が先にあるのであって、決してその逆ではありません。これが逆になると、絶対にここに書かれているような麗しい夫婦の関係は成立しません。「そのように」(エペソ5;28)や「それゆえ」(エペソ5:31)というのは、前提として、キリストと教会のことがあるから、夫と妻もそうあるべきなんだという意味です。「それはキリストが教会をそうされたのと同じです」(エペソ5:29)や「私はキリストと教会をさして言っているのです」(エペソ5:32)という表現にもはっきり現れています。
そもそも夫婦というのは、お互いに対する理想が最も高まった状態で結婚し、それからは、相手の弱さや足りなさを曝し合う関係が続くわけですから、妻が不完全な夫にきちんと従うことも、夫が不従順な妻をやさしくいたわることも、なかなか難しいのです。
「信仰がなくても仲の良いご夫婦がおられますよ」と言われる方もあるでしょう。しかし、イエスの仲介なしに、みことばにも支えられずに夫婦の一心同体が具現化するということは絶対ありません。それが出来ているという評価は、初めから基準が低いか、勘違いしているかどちらかです。
私の妻は15年間、私のメッセージを聴き続けています。彼女と出逢ったのは、もう30年前です。私が救われる前はどんな男だったか、毎日どんな風に暮らしているかを誰よりも知っています。しかし、私のメッセージを駄目亭主の戯言と思わず、神のみことばとして信仰をもって聴いてくれています。これが逆になると、馬鹿らしくって聴けなくなるし、我慢して聴けたとしても、内容を割り引いてしまうことでしょう。まず、お互いの中に「イエスの贖い」に対する強い信頼があって、主にあってきよめられた関係の中で相手を受け入れることが出来るのです。お互いの現実を先に見てしまえば、お互いを受け入れることは難しいでしょう。どちらかがみことばから離れたならば、その関係性の中から立ち上る香りは、キリストのものではなくなってしまいます。

私たちは、リアルな親子関係や夫婦関係の中で、主との関係を常に問い直されます。神を第一にせず、夫は妻を、妻は夫を、親は子を、子は親を第一にする場合があります。それは間違っています。家族や愛すべき者を顧みてはならないと言うのではありません。神を後回しにするのは、実は家族への愛ではなく、自己愛なのです。
よく考えてみてください。夫婦関係のこと、親子関係のことで必死になっているとき、必ずみことばから離れているはずです。熱心に祈っているかも知れません。でも、それはただの肉の願いです。今日のメッセージの中でも既にお話しましたが、もう一度言います。キリストの弟子しるしは、いつも既に与えられたものの素晴らしさのゆえに感謝していることです。自分のことでなくても、家族のために「うまくいっていない」「何か足りない」と感じているのは、信仰から離れています。
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Commented by もも at 2011-06-03 08:28 x
聖書に、こうしろああしろとかかれてあるのを字面だけで読むから、罠にはまるんですね。己に突き刺さっていたのは己が基準だったから。神様をまず第一に求めることが、行いに先んずるのだと思いました。みことばにある、神様からの愛を信じることや、いつもイエス様の命にあることを感謝し信じることが信仰なのかな…と感じます。それすらも自分ではなく神様からの頂き物ですね。
Commented at 2011-06-03 10:06 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by Salt at 2011-06-07 00:13 x
ももさん、そのとおりですね。
みことばが私たちの標準であるべきです。私たちの良い行いもまた、神の作品の範囲内であるということですし、何が良いか悪いかの判断で悩むことからもすでに解放されているというのが、真実です。
by cozyedge | 2011-05-31 08:16 | message | Comments(3)

使徒の働きは今も続いています。


by cozyedge