ツリー・オブ・ライフ

ツリー・オブ・ライフを観た。ちょうど一年前の今頃の我々夫婦にとってはとても大きな出来事とシンクロする内容であった。ちょっと離れたはじめて行く映画館だったのでコンビニで2度ほど道を尋ね、映画が始まる少し前に滑り込めたこともあってどこか導かれてこの映画を観せられた気分であった。ある意味、この映画は我々の為にあるといっても良いと思えるほどである。

「生き方には2つある、世俗に生きるか、神にゆだねるか」

ヨブ記38:4「わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか」、7節「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/神の子らは皆、喜びの声をあげた」のテロップで映画がはじまる。

欧米でも意見が分かれるこの映画、聖書を読んだことの無い日本人にはかなり退屈でわからないかもしれない。

監督であるテレンス・マリックの信仰告白のような作品である。

劇中の説教が意外に良かった。「信仰があっても、辛く悲しく苦しいことが起こる」という内容。登場人物の、つぶやきや祈りも自分の吐露したものとダブり、神への「何故?」と「怒り」にも似た感情を追体験のような再体験のような不思議な感じであった。

未だに祈りや祝福という概念や聖書自体を良く理解していない。本当にそう思う。
「何でもかなえてあげる」と書いてあるのに、イエスの名で祈っても叶えられなかった。ひょっとして、自分は救われてなくて間違った信仰なのかもしれないと今までの信仰告白や信仰生活を根底から覆され揺り動かされた。「祝福された」とかいう信仰者の言葉に嘘っぽさ軽さを感じ、心の中で「それはただあんたにとって都合が良いことが起こったんだろう」と何度も何人に対しても思った。自分たちが体験したことに優越感があるのではないが、要するに見聞きする祈りや祝福を語る人たちの言葉があの体験のあとでは「軽い」のである。付け加えるなら「憐れみ」という言葉もまた同じである。そして、聖書がますますわからなくなった。今は、辛うじてイエス・キリストに信頼を置いている(イエスを心底に信ジタイ!)と言える状態である。否、正直なところ未だに全体重を乗せれる程には信頼を置ききれるかどうかも不明と記した方が良いのかもしれない。一見したら普通に元気よく暮らしてはいるけれども。

要するに未だに我が信仰は、ぼろぼろであるということ。壊れていますね。けれども、このまま進むしかない。ああ、長い旅路の訓練の一貫なのでしょうか?

ヨブ記38章において、神は怒濤の返答を開始されるが、なぜヨブにそれが起こったのかを明確に回答をしていない。これにも意味があるのでしょう。

気持ちよく祈り切っている方を羨む気持ちもない。それも嘘くさくさえ感じるというのが正直なところである。健康な信仰状態の状態とは何ぞやとも思う。フルスロットルで一切の不信無く奇跡を起こしまくるのがそれに該当するのかいささか疑問である。

聖書を語り御言葉を伝えている方々には一定の敬意ははらっているつもりであるが、聖書を、心底に理解して語っている人は、きっと少ないはずである。深く分かっていれば、怖くて御言葉なんて語るリスクを冒すのは嫌だからよっぽどの覚悟がいるはず。嫌々に担ぎだされてやるしかない状況に追い込まれたという経緯も大切かもしれない、モーセのように。

究極を言えば、自分で時間を投資して理解していくしか無いのである。しかし、これも「私なしでは何も出来ない」という御言葉に反するのか否か疑問でもあるが。

祈りとは、祝福とは、憐れみとはと、今でも探求している。大きなテーマである。哲学をするつもりはない。

結論は、結局は神にゆだねるしかないということ。ただ、なぜ神御自身が創造した人間を苦しめたり、或は、苦しみが起こる状況をゆるしたり、ほっておいたり導いたりして自分の方にアテンションを引っ張ろうとするのか?ここをどう捉えるかが、大切なポイントだと思う。

子役の兄弟たちの描写がなかなか良くて、子供時代に思っていたことを思い出したりすることもできた。「俺も子供のときにあんな風に考えて、見たことも無い神に話していた」と映画を見ながら思った。

機会があれば、皆さんにも是非観ていただきたい作品である。

本当の無神論者は、きっと神には失望を感じないはず、その点では、まだ信仰はチットはあるということかな?

思いがこみ上げてきて、思うように書けませんでしたが、独り言ということで納めて下さい。


[PR]
Commented by Salt at 2011-09-04 12:14 x
簡単な軽いレスを拒絶するような内容に圧倒されつつ読みました。あえてコメントします。お二人が経験されたことの意味は、必ず主権者が責任をもって語ってくださると信じます。それがすぐにではなくても。主は意味のないことはひとつもなさらないからです。時間作って映画観ます。ご紹介、ありがとう。
Commented by cozyedge at 2011-09-04 17:00
あまりにもタイムリーな作品に、思わず書いてしまいました。リアルな歩みがしたいのです。上辺だけ「喜んで」いることは簡単ですが、心底に「喜んで」、底抜けに楽しんでイエスと共に歩みたいのです。あえてコメントを下さって有り難うございます。関係がしっかりしてないとコメントしにくい記事ですが、あえて書いてみました。主には、既に解答がおありだと心のどこかで信じていますよ。出なけりゃやっていけませんね。すべての悲惨に対する解決もお持ちです。
良い作品です。是非、御鑑賞ください。
Commented by Salt at 2011-09-05 01:13 x
リアルなあゆみ。本当ですね。十字架を経て初めて、底が抜けるんですが、それは簡単ではないです。

「それはただあんたにとって都合が良いことが起こったんだろう」このツッコミは、かなりリアルですね。

十字架を経たリアルは、自分以上に周囲の人達を喜ばせ、楽しませる力を持っています。
Commented by cozyedge at 2011-09-05 09:02
十字架とは、やはりそれほどのものですね。
Commented by zero at 2011-10-20 00:49 x
cozyさん。以前メールさせていただいたzeroです。(本名書かなきゃわかりにくいですかね?)

cozyさんの率直なコメント拝見して、私も泥のような脳みそになりつつも(単純に眠いだけですが・・・)コメントしたくなっちゃったんで一言書かせてくださいね。

思うに・・・ 「信仰ってなんなんでしょうか?」ってことです。

私が今現在出している答えは「信仰とは・・・私の信仰なんてどうだって良くって、ただただ理屈抜きにイエスキリストは真理そのものであり、真実な方であり、私の救い主であるということを受け入れること」だと思ってます。

私の信仰を見つめれば見つめるほど泥沼にはまって脱出できないんですけど、思考を停止してるだけやろう?って言われようが結局は私たちの目に見えるところではただただ聖書っていわれる書物に書かれている文字を単純に受け入れるって以外にないってことではないでしょうか。

「んなことは、わかってる」って思われるかもしれませんが、僕自身もcozyさんのコメントに共感できるからこそ、敢えて書かせていただきました。

結局のところ、簡単なことを継続すること、単純に信じ続けるってことが一番人間にとって難しいんでしょうね。
Commented by cozyedge at 2011-10-21 11:06
zeroさん
コメントありがとうございます。そうです、単純に御言葉を受け入れてナザレのイエス・キリストが真理ですべてのすべてあるということです。ベクトルは自分ではなくキリストです。この記事で扱った「信仰」ということばは、自由意志の中でイエスを信じる信仰ですから、ベクトルは自分向きに読み取れるかもしれませんが、あくまで信じることを自分で(導きによって、恵みによって)選択しなければ点(イエス・キリスト)と点(自分)が繋がりませんからね。知識が無くても結構、弱い者でも結構、子供のようであればなお良しだと思っています。けれども、信じる力さえ無い自分の発見があり、「私なしでは何も出来ない」との御言葉が迫って、イエスの信仰とイエスの思いで歩むしかなくなる。これが、今のところの理解ですね。信仰とは、上からの作用と自分からの、もしくは自分からの意思だと思っているものが絡み合っているのだと思います。マンネリですが、これが美しいタペストリーになるのだと感じています。
by cozyedge | 2011-09-03 21:06 | 独り言 | Comments(6)

使徒の働きは今も続いています。


by cozyedge