2016年1月16日 信仰放談 テーマ「おそれ」

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新約聖書における「愛」という単語が、ギリシャ語では、「アガペー」「フィレオー」「エロス」と使い分けられていることはよく知られているが、「おそれ」ということばはそれほど厳密に扱われていないようだ。

通常、「恐れる」という漢字は怖くて恐れる、「畏れる」は尊敬してうやうやしく畏れるという意味で用いられるが、新改訳聖書では「畏れる」とするべき箇所さえ「恐れる」という漢字が当てられているほど。これは「畏れ」という漢字が当用漢字からはずされてしまったからだと思われる。実際には「おそれ」という言葉は、ヘブル語では異なった8つの言葉、ギリシャ語では異なった6つの言葉の訳語であるが、日本語のほぼ2種類のことばでそれを置きかえることには無理がある。

しかし、霊的な深い感覚である「おそれ」本来の意味をしっかり考えれば、聖書全体をとおして「主を恐れなさい」と命令されていながら、「愛は恐れを締め出す」とも、「恐れる者の愛は全きものとなっていない」とも書かれていることの表面的な矛盾はとける。

もし私たちに罪がなかったとしても、神は神であるがゆえに畏れるべき御方。神を認め、罪を意識すれば恐れが生じる。恐れには刑罰が伴っているからである。しかし、刑罰が取りのけられたのであれば、もはや恐れはない。罪を贖われたゆえの畏れは、罪がない御使いたちの畏れよりも、さらに深く近しいものになるはず。それは「偶像をおそれる」感覚とはまるで違う。

それゆえ、ソロモンは箴言の中で「神をおそれることは知識のはじめである」といい、伝道者の書では「神をおそれることが人間にとってすべてなのだ」と結論づけている。

ダビデはサウルよりも、特に勇敢だったというわけではない。ダビデは神を畏れ、サウルは人を恐れていたのである。神を畏れることと人を恐れることは深くリンクしている。神を畏れるなら人を恐れなくなり、人を恐れるなら神への畏れは失せる。
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by cozyedge | 2016-01-17 11:45 | Comments(0)

使徒の働きは今も続いています。


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