2016年6月18日 信仰放談 テーマ「敬虔」
2016年 06月 20日
1.イエスさまの敬虔とは … 父なる神に敬虔であるということを主イエスさまが示しておられる
【へブル5:7~10】
キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。
「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」聞き入れられたのは、かなえられたのは、「自分を死から救う」ことではなかった。
【マタイ26:39】
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
【マタイ27:46】
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
父なる神を信じ、愛し、みこころに従い、実に十字架の死にまで従われた、この敬虔のゆえに聞き入れられた。聞き入れられたのは、十字架の死を免れることではなく「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」という祈りであった。
父なる神が最善をなされる、父なる神こそ正しいことを行われ、自分も他者も、あらゆることをよき方へ導かれ幸せにされる。父なる神に対する全き信頼こそが、すべての源となる。
そして、イエスさまのこの敬虔は、「受けになった多くの苦しみによって従順を学び」ということによって生まれた。御子であるイエスさまが、私たちに神に対する従順、敬虔を教えるために多くの苦しみを受けてくださった。
敬虔を考えるとき、まず、このみことばを覚えたい。
1.今、私にとって「敬虔」とは
【ヨハネ17】
13:わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。15:彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。16:わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
17:真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
18:あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
22:またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
23:わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。
24:父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
25:正しい父よ。この世はあなたを知りません。
敬虔な態度というと、深くうやまい仕えるさま、全身全霊をもって依存すること、など一般的には宗教心にあつく宗教的な行事を熱心に行ったり、宗教的な生活をおくったりすることというイメージがある。そういった、うわべの態度のことではなく、敬虔、とはそもそもどういうことだろう。そして、今の私にとって、敬虔である、ということはどういうことか、何を意味しているのか。
神をうやまい仕える、とは、主の人格を尊敬し親しみ、そのみこころに対して敬意を持ち従うこと、ではないか。それは教会へ行く、奉仕をする、といった宗教的な態度の度合いによってはかるものではなく、家事をしていても、仕事をしていても、生活そのものの中で、主のみこころを求め、みこころが天でなされるように地でなされることに伝えることではないか。そこには自ずと「御名があがめられますように 御国がきますように」という祈りが伴う。
私の今の生活の中で、敬虔である、ということはどういうことか。考え直し祈らなければならない。
【Ⅰテモテ6:3~8】
3:違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間ない紛争が生じているのです。
6:しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利得を受ける道です。
7:私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。
【Ⅰテモテ4:8】 今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です
自分を認めさせよう、「あなたより秀でたもの、あるいは、あなたに勝つものである」と上に立とうする、そういった動機で正論を振りかざす者、正しさ、真理、敬虔さなどをどんなに立派に見せようと、その動機、心根が“自分への栄光”であるかぎり、ニセモノである。
その人のこころの宝がなんであるか、それによって人の行動は決まる。その人のこころの宝こそその人の行動規範であり行動の動機となっている。一見、美しくもっともらしい正論を身にまとい武装しても、正体は神によってあばかれる。私は、あばかれ見抜いておられる神さまの前に立っているのだ。その神さまは私を責めるのではなく、導かれ、悪なるものから守って下さる、聖め別ってくださる。その事実の前に静まりじっとすることが敬虔のスタートのはず。何かをするのではなく、主を知りじっと静まること、それがすべてのはじめである。
主イエスさまが父なる神より与えられた栄光とはどのようなものか。
十字架にかかり完全に否定され蔑まれたことによって座ることが出来た王座とは。
その王座をどれほど栄光あるものと考えてくださったか。
【ローマ4:5】
何の働きもない者が、不敬虔なものを義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
【ローマ5:6】
私たちがまだ弱かったときキリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
「あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光」とは、どのようなものか。十字架のことをそのように語られるイエスさまの信仰、敬虔さ、父なる神との関係性。そして、それこそが私に見せたいものと語ってくださっている。であるならば、私の父・子・聖霊に対する敬虔とはどういうものであるのか。どのような価値に対することであるかを教えられなければならない。
「敬虔な人」といわれる見栄えの話ではなく、この栄光、この価値あるもの、に仕える幸いを教えられてこそ生まれるあり方が敬虔であるはずだ。その敬虔は、結果、満ち足りる心を伴う
【ヨハネ5:39~47】
40:いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
41:わたしは人からの栄誉を受けません。
44:互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。
私は、敬虔でありたいから敬虔を望むのではなく、すべてに有益で、大きな利得を受ける道であり、満ち足りる心を伴うから、敬虔、でありたい。
日常の様々な思惑や、欲や、虚栄や、そういった目先の利得や、誤った方向性で喜ぶことから守られ、満ち足りる心を伴い、すべてに有益であり、大きな利得を受ける道につながることを選びたい。
そのために、主イエスさまのいのちを得るためにイエスさまのもとへ行き、人の栄誉ではなく、唯一の神からの栄誉を求めたい。その敬虔こそが、自分を守ってくれる。
敬虔は、その度合いを誇るものではなく、この世で自分が守られるために神様が与えてくださるものではないか。
【ヨハネ17:15~17】
彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
(銀じ郎)
by cozyedge
| 2016-06-20 18:52