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【ローマ5:1~11】3:そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4:忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5:この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
【ローマ15:4】昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
【Ⅰコリント13:13】
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。

 希望が失望に終わることがないのは、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とある。
 自分の人間力で根性を出したりもっともらしい理由付けをしたりすることではない。神さまに愛されている、とそのことに平安と喜びを得るからである。

(銀じ郎)
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by cozyedge | 2017-03-19 00:18 | Comments(0)
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わざわいに対し何を言えるのか?

そもそも、災いがあるからと言って、神に何を訴えられるのか。
【箴言16:4】
主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。
【伝道者8:6~17】
9:私はこのすべてを見て、日の下で行われるいっさいのわざ、人が人を支配して、わざわいを与える時について、私の心を用いた。
17:人は日の下で行われるみわざを見きわめることはできない。
【ルカ13:1~5】
また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったと思うのですか。
【ヨブ42:1~6】
2:あなたは、すべてができること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。
3:まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。
6:それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。

 私も、わざわいは嫌である。私は罪人で神がなされることに口出しできるものではないので、どんなわざわいにあっても何も言いません、などと到底言えない。「なんとかしてください」と見苦しく訴えるだろう。ただ、この世で「どうして…」と思われるようなわざわいであって、それをゆるされる神さまのご計画、みわざについて見きわめることはできない。全てを理解することはできない。軽々しく口出しできないものがある。東日本大震災で石原元都知事が「神のさばき」といった発言をしたが、そんなことはできない。ただ、主の取り扱いを祈るしかない。

わざわいに対し願っても、願ったようにならないのは

【詩編83:1】
1:神よ。沈黙を続けないでください。黙っていないでください。神よ。じっとしていないでください。
4:彼らは言っています。
「さあ、彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう。」
この祈りがそのときすぐかなえられたかどうかはわからない。祈りなさい、求めなさい、とみことばにあるが、下記のみことばもある。

【ヤコブ4:1~10】
3:願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

もっともらしい祈りをしても、主が見ておられるのは人の動機、その人の心にあるものである。神を使って「自分の快楽」を満たそうということに人間は陥りやすい。そして、それに自分では気づけない。神さまがこたえず沈黙しておられるのは、実は多くを語り、私の「悪い動機」を教えてくださっていると思う。それは、他の人でも、他の団体や社会でも同じではないか。立派な人権的発言の底に潜む、神を否定し神以外のものを王座に就けようとする動機に対し、一時的に許し認めても、長い目では神が厳しく取り扱われていることがわかる。

(銀じ郎)
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by cozyedge | 2017-02-25 23:22 | Comments(0)
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「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪と関わりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上で残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」(Ⅰペテロ4:2)
 
「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちてゆく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに、称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります」(同1:5−7)

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを探し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、しばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」(同5:9〜10)

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい、私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない重い栄光をもたらすからです。私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ、目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリント4:16〜18)

「今の時の色々の苦しみは、将来私たちに啓示され様としている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」 (ローマ8:18)
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by cozyedge | 2017-01-22 10:39 | Comments(0)
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【Ⅰペテロ4:10,11】
それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊に備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

それは、自分ために何かを管理することではない。みことばは管理というとき、互いが仕え合うことによって、イエス・キリストを通して神があがめられるように、神のさまざまな恵みを管理しないさい、と教えている。自分を守ったり、自分を高めたり、ではなく互いに仕え合うために、神の恵みを管理しなさい、と教えておられる。そして、その目的は「イエス・キリストを通して神があがめられるためです。」とある。

私に与えられている神の恵み、つまり時間や体力や経験や心理状態やお金や仕事や知人や…それら全ては、自分のための管理ではなく他者のため、互いに仕え合うために管理するものである。そして、その管理の目的は、イエス・キリストを通して神があがめられるように、ということである。

であるならば、ただ健康であればよい、ということではないだろう。もちろん、健康はよいことだが、病であっても、その置かれた状況をどう受け止め管理しているか、ではないか。人間的な良し悪し、この世的な成功であるかどうか、によって主に求められた管理ができているとは限らないのではないか。

【Ⅰコリント4:1,2】
こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。

主にある管理の良し悪しは、この世的な価値基準で判断できないもの、だから「神の奥義の管理者」とみことばに記されているのではないか。

また、「神の奥義 = すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられる」と思う。もちろん、それだけで神はあがめられる方であるが、イエス・キリストを通してあがめられる、ということは、まさに神の奥義ではないだろうか。この奥義の管理者とされた者は、この世の品質基準を満たすために管理するのではなく、神さまが求める品質基準を満たすために管理にあたるのである。この世的な判断や努力や知恵では行えない管理である。

神様からの賜物を受け、神さまのさまざまな恵みを管理しているという祈りなくしては、できない管理ではないか。

仕事での苦労、私が見つめるべきこと、それをこのような管理と祈り捉えると、様々な事柄から解放される。人の感情の思惑、自分の弱さ、そういったことにとらわれない主の働きを祈り求められる。自分は…、と自分の含めた人を恐れ迷うことから自由にされる。

(銀じ郎)
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by cozyedge | 2016-12-19 23:43 | Comments(0)
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【レビ11:45】
わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。

【ヨハネ16:13】
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

単的に、「聖霊の導き」の目的は、私の主は神さまであること、その真理の祝福に導き入れることではないか。 そして、その目的のために「聖霊の導き」が手段としてとられることは、

【箴言6:22】
これは、あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目覚めるとき、あなたに話しかける。

とあるように、日常の具体的な事柄の中に入れこまれているように思える。あまりに溶け込んでおり、霊的に鈍った者にはくみ取れないだろうが、主は「聖霊の導き」をやめることをせず、絶えず語りかけ導きにつながる選択を用意され、主の恵みを注いでくださっているのではないか。

家族により、職場の人により、知人、友人により、不測に思える事態により、おかれた国や社会、時代の社会的背景により「聖霊の導き」はなされる。病気が癒される、奇跡的なことがある、そういったことと主の働きとの関連を全否定するわけではないが、そういったことだけを主の働き、「聖霊の導き」とする雰囲気は、私には違和感がある。

私は、今の生活の中で、人として平凡に起こる日常に「聖霊の導き」を祈り求めたい。

(銀じ郎)
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by cozyedge | 2016-12-19 23:33 | Comments(0)
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「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ3:17)

主は私たちの存在を、その在り様を楽しみ喜ばれる。主の喜びをともに喜びたい。主のまなざしで自分を見つめることが喜びの核になる。

感謝というのが「態度」だとしたら、喜びは、感謝の結果がもたらされた「感情」の表出。
感情が態度の後についてくるものだとしたら、態度が変わらなければ感情も変わらない。
からだの在り様を変えることが、感情を変える。
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by cozyedge | 2016-10-17 00:58 | Comments(0)
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【レビ22:29~33】
 感謝のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。その同じ日にこれを食べ、朝までそれを残しておいてはならない。わたしは主である。~
33:あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、主である。

 レビ記のささげものについて詳しくわかっているのではないが、「感謝のいけにえ」が記述されている。これは「その日に食べ」と命じられている。その理由は「あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出した者、わたしは、主である。」ということではないだろうか。
 ここでは「感謝すること」が求められ認められるのではなく、神さまに受け入れられるように、ということが明記されている。「感謝」そのものはよいことであるが、よいことによって真理がぼやかされ、いつのまにかベクトルを誤らされることがいろいろな場面である。「感謝」についても、そのものは確かによいことだが、何を感謝し、何に向かって感謝しているか、が実は「感謝」において最も大切で、自分勝手な「感謝」など神さまに全く受け入れられないのではないか。肉も「感謝」は好きである。人のたましいにとっても「感謝」は心地よいものである。だから、「感謝」は誤りやすいのではないか。
 病気が治りました、お金が入りました、仕事で成功しました、といったことだけを感謝し、その導きをされた神さまを知り教えられ、神さまを感謝することを知らないのでは、意味がない。(銀じ郎)
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by cozyedge | 2016-10-16 23:58 | Comments(0)
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いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。寺田寅彦(日本の物理学者、随筆家、俳人 / 1878~1935)

ロバが旅に出かけたところで馬になって帰ってくるわけではない。(西洋の諺)


「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11:13)
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by cozyedge | 2016-08-23 00:45 | Comments(0)
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7月後半忙しくてアップするのを忘れていました。
写真は8月のものです。
おじさん4人でちょっと小洒落たランチを味わいました。
夜のラッキー・シェフの手料理は、銀じ郎さんのブログをご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/gintantan8255
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by cozyedge | 2016-08-23 00:41 | Comments(0)
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1.イエスさまの敬虔とは … 父なる神に敬虔であるということを主イエスさまが示しておられる

【へブル5:7~10】
キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。

「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」聞き入れられたのは、かなえられたのは、「自分を死から救う」ことではなかった。

【マタイ26:39】
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

【マタイ27:46】
三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

父なる神を信じ、愛し、みこころに従い、実に十字架の死にまで従われた、この敬虔のゆえに聞き入れられた。聞き入れられたのは、十字架の死を免れることではなく「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」という祈りであった。

父なる神が最善をなされる、父なる神こそ正しいことを行われ、自分も他者も、あらゆることをよき方へ導かれ幸せにされる。父なる神に対する全き信頼こそが、すべての源となる。

そして、イエスさまのこの敬虔は、「受けになった多くの苦しみによって従順を学び」ということによって生まれた。御子であるイエスさまが、私たちに神に対する従順、敬虔を教えるために多くの苦しみを受けてくださった。

敬虔を考えるとき、まず、このみことばを覚えたい。

1.今、私にとって「敬虔」とは

【ヨハネ17】
13:わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。15:彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。16:わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
17:真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
18:あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
22:またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
23:わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。
24:父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
25:正しい父よ。この世はあなたを知りません。

敬虔な態度というと、深くうやまい仕えるさま、全身全霊をもって依存すること、など一般的には宗教心にあつく宗教的な行事を熱心に行ったり、宗教的な生活をおくったりすることというイメージがある。そういった、うわべの態度のことではなく、敬虔、とはそもそもどういうことだろう。そして、今の私にとって、敬虔である、ということはどういうことか、何を意味しているのか。

神をうやまい仕える、とは、主の人格を尊敬し親しみ、そのみこころに対して敬意を持ち従うこと、ではないか。それは教会へ行く、奉仕をする、といった宗教的な態度の度合いによってはかるものではなく、家事をしていても、仕事をしていても、生活そのものの中で、主のみこころを求め、みこころが天でなされるように地でなされることに伝えることではないか。そこには自ずと「御名があがめられますように  御国がきますように」という祈りが伴う。

私の今の生活の中で、敬虔である、ということはどういうことか。考え直し祈らなければならない。

【Ⅰテモテ6:3~8】
3:違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間ない紛争が生じているのです。
6:しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利得を受ける道です。
7:私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。

【Ⅰテモテ4:8】 今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です

自分を認めさせよう、「あなたより秀でたもの、あるいは、あなたに勝つものである」と上に立とうする、そういった動機で正論を振りかざす者、正しさ、真理、敬虔さなどをどんなに立派に見せようと、その動機、心根が“自分への栄光”であるかぎり、ニセモノである。
 その人のこころの宝がなんであるか、それによって人の行動は決まる。その人のこころの宝こそその人の行動規範であり行動の動機となっている。一見、美しくもっともらしい正論を身にまとい武装しても、正体は神によってあばかれる。私は、あばかれ見抜いておられる神さまの前に立っているのだ。その神さまは私を責めるのではなく、導かれ、悪なるものから守って下さる、聖め別ってくださる。その事実の前に静まりじっとすることが敬虔のスタートのはず。何かをするのではなく、主を知りじっと静まること、それがすべてのはじめである。

主イエスさまが父なる神より与えられた栄光とはどのようなものか。
十字架にかかり完全に否定され蔑まれたことによって座ることが出来た王座とは。
その王座をどれほど栄光あるものと考えてくださったか。

【ローマ4:5】
何の働きもない者が、不敬虔なものを義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

【ローマ5:6】
私たちがまだ弱かったときキリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

「あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光」とは、どのようなものか。十字架のことをそのように語られるイエスさまの信仰、敬虔さ、父なる神との関係性。そして、それこそが私に見せたいものと語ってくださっている。であるならば、私の父・子・聖霊に対する敬虔とはどういうものであるのか。どのような価値に対することであるかを教えられなければならない。
「敬虔な人」といわれる見栄えの話ではなく、この栄光、この価値あるもの、に仕える幸いを教えられてこそ生まれるあり方が敬虔であるはずだ。その敬虔は、結果、満ち足りる心を伴う

【ヨハネ5:39~47】
40:いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
41:わたしは人からの栄誉を受けません。
44:互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。

私は、敬虔でありたいから敬虔を望むのではなく、すべてに有益で、大きな利得を受ける道であり、満ち足りる心を伴うから、敬虔、でありたい。

日常の様々な思惑や、欲や、虚栄や、そういった目先の利得や、誤った方向性で喜ぶことから守られ、満ち足りる心を伴い、すべてに有益であり、大きな利得を受ける道につながることを選びたい。

そのために、主イエスさまのいのちを得るためにイエスさまのもとへ行き、人の栄誉ではなく、唯一の神からの栄誉を求めたい。その敬虔こそが、自分を守ってくれる。

敬虔は、その度合いを誇るものではなく、この世で自分が守られるために神様が与えてくださるものではないか。

【ヨハネ17:15~17】
彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

(銀じ郎)
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by cozyedge | 2016-06-20 18:52 | Comments(0)

使徒の働きは今も続いています。


by cozyedge