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【Ⅱテモテ1:5】
私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。

たいがいこのみことばが取り上げられ、礼拝の参加の仕方、家庭礼拝の有り方、教会での奉仕への加わり方、などなど話し合われていた。「まあ、そんなものか」と付き合ったが、救いも信仰も神さまと個人の事柄であるなら、救いや信仰を継がせられるもののように考え取り扱う様子に、なんとも違和感があった。そういうことをいうと必ず「うるさいことをいう」と場が重くなった。ごちゃごちゃ言わず「信仰の継承のために」と礼拝の参加の仕方、家庭礼拝の有り方、教会での奉仕への加わり方などを話し合い実践すれば丸く収まる空気だった。

そんな空気は、大嘘だ。大嘘をほんもののようにして騙し合っていると、とんでもないしっぺ返しを食らう。「信仰による人間疎外」というタイトルの本もあったが、教会のそんな欺瞞が人を壊した事例はたくさんある。「信仰の継承」といったことばに惑わされ騙されず、受け継がせるべきことはなんだろう。

 ダビデという人によって神さまと結ばれた契約がどう受け継がれたのかということでは、その契約を受け継がせた人のことではなく、受け継ぐ側の者がその契約にどうであったか、しか語られていない。つまり、神さまとの契約は、神さまとダビデの契約であり、その契約に対して常にその人がどうであるかであり、人が人に契約を受け継がせられるものではない、ということではないか。

そうであるなら「信仰の継承」などあり得ない。【Ⅱテモテ1:5】のみことばは人の手によって継承されたものではなく、ロイスもユニケもテモテも、個々人が主の前にどうであったのか、ということではないか。信仰だけでなく、この世の継承させたい、と思う大切なことでも、結局は、その事柄に向かう者の有り様であり、受け継がせられるものが本質とはならないのではないか。

【Ⅰペテロ1:4】
また、朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

【エペソ1:19、20】
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力によって私たち信じる者に働く力がどのように偉大なものであるかを、あがたが知ることができますように。

歳をとったものの頑迷な意地で「不易な大切な事を受け継ぎなさい」とならず、受け継ぐ側の者が自発的・主体的に気づき受け継ごうとする、そうでなければならない。私は、「なんでわからん、受け継がない」と苛立ったり、不満に思ったりするのではなく「あがたが知ることができますように」と祈らなければならない。そのためには、まず自分が知ること、教えられることである。受け継がせるべき天にたくわえられているものを、私が教えられ知らされなければならない。教えられれば教えられるほど、知らされれば知らされるほど、人の手によって受け継がせる者でない事がわかるだろう。
主にある「継承」でありたい。
                                   (銀じ郎)
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by cozyedge | 2016-05-14 23:35
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【ガラテヤ6:13、14】
なぜなら、割礼を受けた人たちには、自分自身が律法を守っていません。それなのに彼らがあなたがたに割礼を受けさせようとするのは、あなたがたの肉を誇りたいためなのです。しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

【コロサイ2:18】
あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとしたりするものに、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、

【Ⅰテサロニケ2:19】
私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは誰でしょう。あなたがたではありませんか。

【へブル3:6】
もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

私は、この私を誇りとしてくださっている主を知っていることが、私の「誇り」であると、つくづく思った。
【Ⅰテサロニケ2:19】
私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは誰でしょう。あなたがたではありませんか。

主が、この私を誇りとしてくださっている。これ以外のものはない。

【へブル13:8】
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

イエスさまが、今、この世におられたなら、私の置かれている立場におられ私に与えられている仕事をしたとしたら、どうされただろうか。私の家族にどうされただろうか。それは、あえりない発想ではなく、むしろ、イエスさまは 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」 という方であり私の置かれた立場という制限・枠の中で、今も父なる神のみこころを誠実に行われている方である。その主の姿に追従するのみである。

それは、盲信ではない。目に見える何かに指示されて動くのではなく、祈りの中で主に導かれる事柄に信仰によって歩むことである。私がなぜそうしているのかを、人から理解されるためではない。

誰に知られるわけでもなく、主が 「御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠」 と喜び見つめてくださっているまなざしを静かに覚えたい。

(銀じ郎)
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by cozyedge | 2016-04-23 12:25
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「エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。
ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。
あなたがたの誠実は朝もやのようだ。
朝早く消え去る露のようだ。
それゆえ、わたしは預言者たちによって、
彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。
わたしのさばきは光のように現れる。
わたしは誠実を喜ぶがいけにえは喜ばない。
全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6:4~6)


「誠実」とは、誠実さを装うことでも、追い求めることでもなく、まず、「人が神に対してあまりにも不誠実であること」を認めることから始まる。そして、その不誠実な人を無条件に受け入れる誠実さを神が持っておられることを信じること。不誠実な私を受け入れる神の誠実さを受け入れること。これを後ろめたさなしに受け入れるためには、神の寛容さや慈悲深さを知るだけでは不十分。既に支払われた贖いの代価の尊さを知らねばならない。誠実さとは、自分の恐れや不安や後ろめたさをなだめるために形式的に「いけにえ」をささげることではなく、正しく神を知ることである。「いけにえ」は、人から神への形式をとるが、それは神がご自身を宥め給うために、自ら備えられたものであり、それらはすべてイエスを予表することにのみ意味があった。まことの「いけにえ」イエスは、「神がそのひとり子をお与えになった」とあるように、神から人への誠実さの証である。その神の愛を知ることが、形式的な「いけにえ」やあるいは、「いけにえ」に象徴される人から神へのあらゆる捧げものにまさるのは言うまでもない。

ただし、朝もやや、露が存在しないわけではない。それは自然界でもそうであるように一定の条件が整えば発生するが、条件がくずれれば消え去ってしまう。それゆえ、希少であり、美しい。しかし、人の誠実とは、そのような極めて限定的な条件付のものだということを言っているのだ。私たちは、人の誠実を追及するのではなく、神の誠実を知らねばならない。そして、神の誠実を味わった者は、人の誠実を神の前に主張するはずもない。言い換えれば、人の誠実を主張する者は、神の誠実を知ってもいないし、味わってもいないということだ。

このホセアのことばは、マタイ9:10〜13に引用されているが、正しく理解されているだろうか。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か行って学んで来なさい。とイエスはおっしゃっている。ここでは、「誠実」は「あわれみ」と訳されているが、ヘブル語では、同じヘセドであり、文脈によって様々なことばに訳されている。では、誰の誰に対するあわれみだろうか.取税人や罪人たちを侮蔑するパリサイ人に神があわれむように寛容なまなざしに目を向ける様に促されたのだろうか。だとすれば、並行して語られている医者と病人のたとえにおいて、パリサイ人は医者の立場に己を置くことになるが、イエスは、医者はイエスただひとりであって、人は皆癒し難い罪という病の中にあることを自覚せよというメッセージを与えられたのである。
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by cozyedge | 2016-02-20 16:38
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新約聖書における「愛」という単語が、ギリシャ語では、「アガペー」「フィレオー」「エロス」と使い分けられていることはよく知られているが、「おそれ」ということばはそれほど厳密に扱われていないようだ。

通常、「恐れる」という漢字は怖くて恐れる、「畏れる」は尊敬してうやうやしく畏れるという意味で用いられるが、新改訳聖書では「畏れる」とするべき箇所さえ「恐れる」という漢字が当てられているほど。これは「畏れ」という漢字が当用漢字からはずされてしまったからだと思われる。実際には「おそれ」という言葉は、ヘブル語では異なった8つの言葉、ギリシャ語では異なった6つの言葉の訳語であるが、日本語のほぼ2種類のことばでそれを置きかえることには無理がある。

しかし、霊的な深い感覚である「おそれ」本来の意味をしっかり考えれば、聖書全体をとおして「主を恐れなさい」と命令されていながら、「愛は恐れを締め出す」とも、「恐れる者の愛は全きものとなっていない」とも書かれていることの表面的な矛盾はとける。

もし私たちに罪がなかったとしても、神は神であるがゆえに畏れるべき御方。神を認め、罪を意識すれば恐れが生じる。恐れには刑罰が伴っているからである。しかし、刑罰が取りのけられたのであれば、もはや恐れはない。罪を贖われたゆえの畏れは、罪がない御使いたちの畏れよりも、さらに深く近しいものになるはず。それは「偶像をおそれる」感覚とはまるで違う。

それゆえ、ソロモンは箴言の中で「神をおそれることは知識のはじめである」といい、伝道者の書では「神をおそれることが人間にとってすべてなのだ」と結論づけている。

ダビデはサウルよりも、特に勇敢だったというわけではない。ダビデは神を畏れ、サウルは人を恐れていたのである。神を畏れることと人を恐れることは深くリンクしている。神を畏れるなら人を恐れなくなり、人を恐れるなら神への畏れは失せる。
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by cozyedge | 2016-01-17 11:45
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「産む」という行為には、神さまの知恵や愛が込められているとつくづく教えられる。

【Ⅰペテロ1:3】
 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

【Ⅰペテロ1:23】
 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

【使徒20:35】
 このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われたみことばを思い出すべきであることを、私は、万事につけ、あなたがたに示してきたのです。

 神さま、イエスさまによって「産む」ことをされた私は、イエスさまが死者の中からよみがえられたことによって、新しく産みだされた。朽ちる種からではなく朽ちない種から産みだされた。
 自分を教師としえ育ててくれた先輩教師に恩返しはできないけれど、自分が後輩に教えられたことを伝える“恩送り”によって先輩に感謝したい、という教師がいた。神さまに感謝し神さまを賛美することと、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われたように、受けたことを与え、「産む」ことによって感謝を、賛美を神さまにささげることをしたい。
 
                                      銀じ郎
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by cozyedge | 2015-12-19 23:08
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①すべての実りは「死」と「復活」がスタート
 
② 種まきのたとえの重要性
  
③「種」こそが実の本質

④ 蒔けば必ず刈り取る
  
 

    「留魂録」 吉田松蔭 

「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」

今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである。

つまり、農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れるのだ。
この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるというのを聞いた事がない。私は三十歳で生を終わろうとしている。未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれない。

だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのであろう。なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。

人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。

十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない。

私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。

もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。

同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。
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by cozyedge | 2015-11-29 14:55
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【ヨハネ14:27】
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのと違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

【ヨハネ16:34】
見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。…
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

【ヨハネ20:19~23】
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて都がしめてあったが、イエスが来られて、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
… 「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わせてように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

イエスさまは「平安」をくださった。「平安があなたがたにあるように。」と言ってくださった。それは、自分で平安を捻出して平安があるように、と言われたのではなく、物や人間に頼って平安を持つようにと言われたのでもない。「あなたがたにわたしの平安を与えます。」と言われた。「わたしの平安」であり、「イエスさまの平安」である。私の平安ではなく「イエスさまの平安」である。それは、物や人によって得ようとする私の平安とはまったく異なるものである。

【ローマ8:6】
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。

平安、平安、というとき、どうしても肉の味付けの平安を求めてしまう。それは、平安ではない。御霊こそが「イエスさまの平安」をもたらす。状況に関係なく、私に関係なく、御霊があることによりもたらせるものは「わたしはすでに世に勝ったのです。」とイエスさまが言われた通り、世の出来事に影響されず、勝利したものである。

(銀じ郎)
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by cozyedge | 2015-10-18 23:41
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私は自分の信念や意思に従っているというより、希望に向かっているつもりである。益となり良いことに向かっているという希望に従っているのだ。それは、みこころに向かうことを選んでいることでもある。この一点に対し「自分はどうであるか」であり、人を恐れて状況判断しては、結局、泥沼のしんどさに陥ると知ったからだ。その泥沼でもがくしんどさより、みこころに向かい生じる摩擦を浴びる方が平安である。恐れなければならない方は主、神さまだけである。忍耐は、そのもの自体でも尊い。しかし、この主にある希望へとつながるものでなければ、主が与えてくださった忍耐の意味や価値はない。人間的な評価ではない。主にあることこそが全てである。忍耐を人の美談にすりかえてはならない。主に連なる希望とセットであるものが忍耐である。だから、忍耐の中に「主にある希望」を見なければならない。忍耐だけが尊いのではない。(銀じ郎)

【ローマ5:3~5】
そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

【ローマ15:4】
昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたものです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

【Ⅰコリント10:13】
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
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by cozyedge | 2015-09-23 19:42
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ヨナタンは神を見て、神にあってダビデと友であることを教えられていた。だから、この世的には王サウルの子として王位を継承する立場・権利があった者なのに、心から真実をもって、王位はダビデにある、と信仰によって告げた。ダビデもまた神にあってヨナタンと友であったので、そのことばを疑わず受け入れ励まされた。二人を繋ぐ方は父なる神であり、「父なる神にあって」ということばは飾りのようにあるものではなく、真に二人は互いを関係づける父なる神の存在、御手を教えられていた。この父を共有する「内面の共有」こそが「信仰の友」とする。(銀じ朗)
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by cozyedge | 2015-08-12 00:58
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どんなきれいごとも主張も、人の思い上がりと紙一重ではないか。人の動機の中に、完璧な善や義はない。「先生」として教える側に立ち、他者に向かうとき、正しい心を持つことは厳しく困難である。完璧な安心基地と自我理想にはなれない。ただひとり、神さまだけができることである。イエスさまだけが「主」となり「師」となり得る方である。(銀じ朗)
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by cozyedge | 2015-08-12 00:49

使徒の働きは今も続いています。


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