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私は自分の信念や意思に従っているというより、希望に向かっているつもりである。益となり良いことに向かっているという希望に従っているのだ。それは、みこころに向かうことを選んでいることでもある。この一点に対し「自分はどうであるか」であり、人を恐れて状況判断しては、結局、泥沼のしんどさに陥ると知ったからだ。その泥沼でもがくしんどさより、みこころに向かい生じる摩擦を浴びる方が平安である。恐れなければならない方は主、神さまだけである。忍耐は、そのもの自体でも尊い。しかし、この主にある希望へとつながるものでなければ、主が与えてくださった忍耐の意味や価値はない。人間的な評価ではない。主にあることこそが全てである。忍耐を人の美談にすりかえてはならない。主に連なる希望とセットであるものが忍耐である。だから、忍耐の中に「主にある希望」を見なければならない。忍耐だけが尊いのではない。(銀じ郎)

【ローマ5:3~5】
そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

【ローマ15:4】
昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたものです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

【Ⅰコリント10:13】
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
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by cozyedge | 2015-09-23 19:42

使徒の働きは今も続いています。


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