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「エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。
ユダよ。わたしはあなたに何をしようか。
あなたがたの誠実は朝もやのようだ。
朝早く消え去る露のようだ。
それゆえ、わたしは預言者たちによって、
彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。
わたしのさばきは光のように現れる。
わたしは誠実を喜ぶがいけにえは喜ばない。
全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6:4~6)


「誠実」とは、誠実さを装うことでも、追い求めることでもなく、まず、「人が神に対してあまりにも不誠実であること」を認めることから始まる。そして、その不誠実な人を無条件に受け入れる誠実さを神が持っておられることを信じること。不誠実な私を受け入れる神の誠実さを受け入れること。これを後ろめたさなしに受け入れるためには、神の寛容さや慈悲深さを知るだけでは不十分。既に支払われた贖いの代価の尊さを知らねばならない。誠実さとは、自分の恐れや不安や後ろめたさをなだめるために形式的に「いけにえ」をささげることではなく、正しく神を知ることである。「いけにえ」は、人から神への形式をとるが、それは神がご自身を宥め給うために、自ら備えられたものであり、それらはすべてイエスを予表することにのみ意味があった。まことの「いけにえ」イエスは、「神がそのひとり子をお与えになった」とあるように、神から人への誠実さの証である。その神の愛を知ることが、形式的な「いけにえ」やあるいは、「いけにえ」に象徴される人から神へのあらゆる捧げものにまさるのは言うまでもない。

ただし、朝もやや、露が存在しないわけではない。それは自然界でもそうであるように一定の条件が整えば発生するが、条件がくずれれば消え去ってしまう。それゆえ、希少であり、美しい。しかし、人の誠実とは、そのような極めて限定的な条件付のものだということを言っているのだ。私たちは、人の誠実を追及するのではなく、神の誠実を知らねばならない。そして、神の誠実を味わった者は、人の誠実を神の前に主張するはずもない。言い換えれば、人の誠実を主張する者は、神の誠実を知ってもいないし、味わってもいないということだ。

このホセアのことばは、マタイ9:10〜13に引用されているが、正しく理解されているだろうか。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か行って学んで来なさい。とイエスはおっしゃっている。ここでは、「誠実」は「あわれみ」と訳されているが、ヘブル語では、同じヘセドであり、文脈によって様々なことばに訳されている。では、誰の誰に対するあわれみだろうか.取税人や罪人たちを侮蔑するパリサイ人に神があわれむように寛容なまなざしに目を向ける様に促されたのだろうか。だとすれば、並行して語られている医者と病人のたとえにおいて、パリサイ人は医者の立場に己を置くことになるが、イエスは、医者はイエスただひとりであって、人は皆癒し難い罪という病の中にあることを自覚せよというメッセージを与えられたのである。
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by cozyedge | 2016-02-20 16:38

使徒の働きは今も続いています。


by cozyedge