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7月4日 メタモルフォーゼ(ひねくれ者のための聖書講座⑰)

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7月4日    メタモルフォーゼ(ひねくれ者のための聖書講座⑰)

今から約20年前の詩を綴った詩集「生贄たちの墓標」の中で、私は「アゲハチョウの変態に隠された本物の哲学」というフレーズを使っています。人間が考え出したどんな理屈よりも、蝶の変態の事実の中には確かな希望が感じられたからです。昆虫の羽化、とりわけ蝶の仲間のように、完全変態といって「蛹」になるもののメタモルフォーゼは実に感動的です。まさにそれは「死と復活」のモデルであり、「栄光のからだ」の実在を保証する天からのメッセージだと思えるからです。

 実は、「変態」は最近のマイブームなのです。数週間前から、私の教室で「ツマグロヒョウモン」という種類の蝶が次々に羽化しているのです。ツマグロヒョウモンの幼虫はスミレを食べるのですが、野生のスミレ類だけでなく、園芸種のものも食べます。学校のプランターに植えられたパンジーにいっぱいつくのです。幼虫は黒色で、背に一本の赤い筋が通っています。体には突起があってけっこう毒々しい感じですが、これが綺麗な蝶になるのです。幼虫や蛹からは蝶の姿など想像もつきません。そうこうして盛り上がっていたら、電気屋さんのブログでも羽化の話題が取り上げられていたのでびっくりしました。こういう「霊的シンクロ」は楽しいものです。それで「これはムシできないなあ」という感じになり、今回のメッセージのテーマにしたというわけです。

 昆虫はあらゆる生物の中で種類も数も最も多いものですが、その成長過程は、完全変態と不完全変態に分けられます。細かく分ければ、過変態や多変態というプロセスを経る種類もあります。これは寄生虫に多いパターンです。昆虫は卵から幼虫の時代を経て成虫になるのですが、卵から幼虫が生まれることを「孵化」といい、幼虫や蛹が成虫になることを「羽化」というのです。幼虫が蛹になることを「蛹化」と言います。不完全変態の昆虫では、幼虫は成虫とほぼ同じ構造を持っています。例えばバッタやカマキリのように、成虫と同じような姿で同じような生活をします。しかし、セミのように幼虫は地中で生活するものもあれば、トンボのように幼虫は水中で生活というものもあります。これらの昆虫では、成虫とは全く異なった環境で生活をするために、かたちは似ていても違った構造を持っています。先日、天理市内を流れる布留川でリバーウオッチングをしたのですが、ヤンマなど大型のトンボのヤゴは岩かげの住みやすいように平べったいかたちをしています。「あんなぺっちゃんこのからだが細長いトンボになるんだなあ」とびっくりします。その中に立派な羽のもとになるものがプログラムされているのです。
 ハグロトンボやコオニヤンマのヤゴがたくさん見つかりましたが、中でも5年目のオニヤンマのヤゴが見つかりました。これらの生き物は比較的きれいな水(少し汚れた水)にしか住めません。私たちはただ昆虫採集をしていたのではなく、環境の学習をさせていたのです。どんな水生昆虫が住んでいるかによって、川の汚れ具合がわかるのです。こうした生き物は、環境指標生物と言います。
 完全変態の昆虫では、幼虫と成虫の姿はいっそう違っています。いわゆる芋虫や青虫などといわれる幼虫です。バッタやセミには芋虫の時代はありません。芋虫は面白いです。4枚のハネと6本の足という複雑な形態とはかけ離れ、ハネもなく足もなく、ご承知のように非常に単純なかたちです。幼虫の時代はひたすらエサを食べるのです。
蛹は、カブトムシやクワガタなどの甲虫類のように比較的成虫に似た形のものから、蝶のように成虫の姿がイメージ出来ないものもあります。中には蚕のように繭を作ってその中で蛹になるものもいます。蛹になるとき、幼虫は自分のからだを枝や葉に結びつけて固定し、そこで動きを止めます。周囲の色と同化するものもあります。ほとんど「死んだように見える」蛹ですが、その体内では劇的な変化が起こっているのです。蛹の中では、幼虫期に摂取し備蓄しておいた栄養分を用いて、成虫の体を形作っているのです。
 蝶の変態について、幼虫と成虫の変化を整理してみます。目は幼虫の場合6個あり、これらは下を向いています。成虫の場合は数万個の目からなる複眼があり、どの方向でも見えるようになっています。幼虫は葉を食いちぎるための機能を備えた口を持っていますが、成虫の口はストロー状で蜜を吸うのに適したものに変わっています。成虫は、足も触角も長くなります。そして何より空を飛び移動する大きな美しい羽があり、子孫を残すための生殖器もあります。
どうですか、蝶の変態には哲学があるでしょう。美しい羽でとびまわることが出来、食べるものは葉っぱから蜜に変わり、花から花へと飛び遊んでいるように見えて、卵を産んで子孫をつなぐのですから、健やかなクリスチャンのようでもあります。ちなみにギリシャ語で蝶はプシュケーといって「魂」の意味があります。

 電気屋さんもブログに書いておられましたが、昆虫が羽化するタイミングは決まっていて、体内時計や気温や日照時間によるさまざまなプログラムがあります。こうした特徴を利用して、人工的にモンシロチョウの羽化させる授業をしたこともあります。
 「ちゃんと羽化するポイントは決して人が手を出してはいけないという事。羽があんなにもシャンと伸びるのはお腹に用意されてある体液(私たちにすれば、備えられている血)を送り込んで伸ばすそうです」と電気屋さんは書かれています。
 これは全くそのとおりですね。先日、まもなく羽化が始まろうとしている蛹を、子どもたちが触りまくったので、そのまま死んでしまいました。羽化が始まってからはもっとそうです。羽に体液がいきわたってしゃんとするまで、人が手を触れてはいけません。

 実は今日はまだひとつもみことばを開いていませんが、極めて霊的な教訓に満ち満ちているとは思われませんか。
 まず、詩編22編を開きます。ここに「虫けら」という表現が出て来ます。
 「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです」(詩編22編6節)
 ここで言う「虫けら」は、原語を見れば、昆虫ではありません。どうやら「みみず」のようなものを指すようです。英語ではwormです。足さえない冴えない姿のものです。ウジムシやサナダムシも指すと書いてあったので、生物学的な分類ではなさそうです。ハエは完全変態ですから。
 「早起きは三文の得」という諺は、英語ではThe early bird catches the wormと言いますから、鳥の餌になりそうな虫は何でもwormなんでしょうか。ルアーフィッシングの疑似餌もwormですね。魚の餌になるような足のない虫がそれにあたるのでしょう。こららが、ヘブル語の指すものと完全に一致するかどうかはわかりません。前半熱心にお話した蝶の幼虫はgreen caterpillerです。これは戦車やブルドーザーのキャタピラーと同じですから、機能的なイメージです。wormの場合は、日本語でいう「虫の知らせ」とか、「疳の虫」とかいう表現に近い使い方をします。

 いずれにせよ、栄光に輝くはずの神のひとり子が、人に忌み嫌われる虫けらのように、また、弱く無抵抗に、ただ殺されていくということです。今回私は改めて、この「虫けら」という表現の中に復活の可能性を見出そうといろいろ調べてみたのですが、そこで強くされやイメージは、そういう希望や可能性ではなくて、徹底した「弱さ」「醜さ」「無抵抗」というものでした。
 パウロは「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた」と書いていますが、今回は「自分を卑しくして、死にまで従い」という表現に深く気づかされました。(ピリピ2:6~7)

 ユダヤ人たちは、長年にわたって律法を守りメシアを待ち望んでいました。しかし、実際のイエスは彼らが期待したメシア像とかけ離れていました。つまりイザヤ53章やこの詩編22編に出て来る苦難のメシア像は受け入れられなかったわけです。これを批判するのは簡単ですが、神の正義や聖を徹底的に教えられた民ですから、メシアが傷つき人から捨てられていく惨めな姿など想像も出来ず、これは誰か別の預言者のことだろうと思うわけです。

 健やかなクリスチャンが当たり前に信じていることは、実は「はい、そうなんですか」と簡単に納得して信じられるような内容ではないですね。抵抗や反発があるのは当然で、我々の経験や知識の範疇では調和しない内容だと思います。だから、福音のメッセージというのは、信じる他ないのです。しかも、その「信仰」というのも、私たちの「信じる力」が必要なのではなく、「イエスの信にあやかる」のです。イエスがこのような辱めを越えて、十字架の死を遂げてくださったことによって、私たちは、新しいいのちのサイクルの中に入れていただいたのです。これはとても大事な認識です。
 パウロはこう言っています。
 「ところが、ある人はこう言うでしょう。『死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。』愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ生かされません。あなたが蒔く物は、後に出来るからだではなく、麦やそのほかの穀物の粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになりました。すべての肉が同じではなく、人間の肉もあれば、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあり、個々の星によって栄光が違います。死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。聖書に『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダムは生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものは後に来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ています。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちを持つのです。」(Ⅰコリント15:35~49)

 私たちは生まれながらの「古いいのちのサイクル」にいます。「最初のアダム」「第一の人」につながる死すべき者です。しかし、信仰によって「最後のアダム」「第二の人」につながる「新しいいのちのサイクル」に移される必要があるのです。
 昆虫のメタモルフォーゼは美しい模型ですが、模型には希望と絶望があります。模型の椅子はデザインや作家のイメージは伝わっても、実際に座ることは出来ません。キリストのいのちとつながっていなければ、復活の望みはありません。

 パウロは「被造物は人間の罪のゆえに虚無に服している」と語っています。(ローマ8:18~25)しかし、この虚無に服した自然の営みの中に、「服従させた方」の計画を見出すなら、私たちは、力強い希望を持つことが出来ます。私には「栄光の自由」という表現が輝いて見えます。(ローマ8:21)私たちは、信仰があっても未だ「屈辱の不自由」の中にいるかも知れません。しかし、キリストが復活されたので、十字架をともにしている私たちも間違いなく変えられるんだという望みを持ち得るのです。この「望み」こそが、今まさに、新しいいのちの種をいただいている、すなわち「救われている」証だと聖書は教えています。

 古い自然のサイクルには、新しい創造のサイクルの秘密が隠されてはいます。しかし、それは単純に延長線上にあるものではありません。「私」という一点は、変わることなく古い自然のサイクルの中にもあり、罪を犯し、弱さに負け、老い衰えて朽ちていくでしょう。そういうものとして蒔かれていると書いてあります。しかし、その「私」という一点に、聖霊というかたちで新しい種が宿るなら、私たちは同時に新しいいのちのサイクルに移されており、「朽ちないからだ」と「栄光の自由」の引き替え権を既にいただいているのです。
by cozyedge | 2010-07-07 19:09 | message

使徒の働きは今も続いています。


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