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7月25日 日は動かず月はとどまる(約束の地カナン⑦)

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7月25日      日は動かず月はとどまる(約束の地カナン⑦)

 エリコやアイでの出来事を耳にした周辺の王たちは、イスラエル軍に対抗すべく連合しようとしましたが、ギブオンの住民はそれに与することなく、イスラエルに取り入ろうと策を巡らせました。戦うどころかみずから望んで「奴隷でもいいからイスラエルの下で生き延びる」という選択をしたのです。すぐそばに住んでいるのに、遠い国からやって来たというような臭い芝居をしたので、ヨシュアたちも怪しいとは思っていたようですが、イスラエルの神の力を認める発言などを聴き、信用して主の指示を仰ぐことなく、友好条約を結んでしまいます。ところが3日後にその嘘がばれて、結局ギブオン人はイスラエルの奴隷となります。(ヨシュア9章1~15節)
 今日も本来滅ぼされるべきものとの妥協とその結果の不自然な共存をそこかしこに見ますが、このギブオンとの妥協はそうしたことのモデルであるような気がします。

 エリコに続いてアイを滅ぼしたイスラエルの勢いは、ギブオンが戦わずして降伏させます。そした事態に、エルサレムの王は「大いに恐れた」と記録されています。(ヨシュア10:2)
 なにしろギブオンは「アイよりも大きく、そこの人たちはみな勇士たち」だったのです。
 おそらくエルサレムの王は、ギブオンと協力してイスラエルを迎え撃つことを期待していたでしょうが、この始末です。王であるアドニ・ツェデクは、カナン南部の王たちに援軍を要請し、まずは裏切ったギブオンを討つべく集結しました。これを受けてギブオンも、ギルガルに宿営するヨシュアに援軍を要請します。ヨシュアは夜通し行軍して敵の連合軍に不意打ちをかけて攻めました。
 敗走するアモリ人を大きな雹が襲います。これは、神が殺意をもって降らせたものだとみことばは記しています。「雹に打たれて死んだ者はイスラエルの人々が剣で殺した者よりも多かった」と書かれています。(ヨシュア10:11)
 イスラエルの戦いを勝たせるために、神が後押ししたのではなく、カナン人に対する神の裁きをイスラエルが代行したのです。ヨシュアたちは、そうした役割を厳粛に代行しながら、「神の正義とは、救いとは何なのか」ということを学んでいくわけです。

 主がイスラエルをカナンに連れ戻されたのは、カナン人の罪が極まったからです。ノアの時代にその世界のすべてを洪水で滅ぼされたように、アブラハムの時代にソドムを火で滅ぼされたように、カナン人を討つためにはイスラエルの剣を使われたのです。
 旧約聖書が単なるナショナリズム、つまりユダヤの民族宗教ではないことの「しるし」として、信仰のある異邦人の遊女を助け、不信仰なイスラエル人を滅ぼされました。これは、本シリーズの中で丁寧にピックアップしているポイントです。
 かつて主はアブラハムに、「アブラハムの子孫が異国に行った後、アモリ人、すなわちカナンの諸部族の罪が極みに達したときに帰ってくる」と預言しておられました。(創世記15:16)
 ヨシュアによる征伐は、その約束の履行なのです。
 さて、今日のメッセージの主題でもある内容を、この後、ヨシュアが語っています。「『日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。』民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。」(ヨシュア10:12~13)

 どうしてヨシュアは、後の世の懐疑論者たちに口実を与えるようなおかしな提案をしたのでしょうか。多くの血生臭い虐殺の記録に加え、今度は天文学を覆すような話です。今日の常識ではなかなか受け入れられる内容ではありません。
 聖書は、地球の自転が24時間にわたって停止したと言っています。しかも、これは「太陽がその走路を駆け抜ける」というような詩編にある比喩的表現ではなく、事実として起こったことだとご丁寧に書いてあります。「主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にも後にもなかった」(ヨシュア10:14)ということです。
 ヨシュア記の著者も、これが歴史上ただ一度きりの物凄い奇跡だという感動と驚きを込めてこのように綴ったのであり、主もその書き方を許されたのです。しかし、ヨシュアの時代には、この世に誰一人「地動説」を唱える人はいません。ヨシュアは、ただ神の威光を褒め称えただけであって、自分が何を言っているのかという相対的な認識はありません。後にどんな影響を及ぼすことになるかわかっていないのです。プロテスタントの宗教改革者も、このヨシュアのことばを根拠に「地動説」を唱える科学者を「神を冒涜する者」として迫害したのです。
 皆さんはどう思われますか。信仰があってもこの記事はちょっと信じられないという人はいるはずです。これが事実だとするとすごいことです。地球一周は約40000kmです。地球は24時間で一周するので、40000÷24≒時速1667kmです。約1700kmですね。
 緯度によって自転のスピードは変わります。日本の場合だと、秒速で約380mです。実は音速は秒速340mですから、私たちは音速より速く回転しているのです。すべてが隣にいる人も膝の上にいる猫も同じスピードで回っているので、私たちはスピードどころか、自転そのものを感じることが出来ません。 
 物体には「慣性の法則」が働いていますから、もし、地球が自転を停止したとするなら、地球上のあらゆる物体が音速以上で地球が回転している東方向に吹っ飛んでしまうことになります。しかも音速以上ですから、雹が降ってくるより遥かに恐ろしい未曾有の天変地異です。間違いなくいのちのあるものは即死です。その衝撃波のスケールは物凄いものとなるでしょう。生き物や建物だけではありません。地球の7割を覆っている海水が動揺の動きをするなら、すべての大陸の西海岸が大津波に襲われるはずです。そして、ふたたび自転が始まったときは、今度は西向きのエネルギーが発生し、すべての大陸の東側で大津波が起こるでしょう。

 では、このヨシュアの語った奇跡は、以上のような科学的所見の結果、古代の妄想や神話として片付けてよいでのしょうか。
 私たちが生きているこの時代では、「地球が太陽の周りを回っているのだ」ということは小学生でさえ知っています。そのような知識に基づいて判断するなら、このヨシュア記の記述を、極端に大げさなもの、独りよがりなものと評価するのが自然です。
 しかしながら、忘れてはならないのは、どんなに正確で深い知識を持っていたとしても、今の時代も、過去と同様、「地球が動いているとういう事実を感覚的に実感できる人間など存在しない」ということです。私たちは動いている地球と同じスピードで回転しているのです。ニュートンだってアインシュタインだって、月がのぼり、日が沈むようにしか見えません。人間ですから。私たちは、「何が中心であるか」を感じることなく自己中心に生きています。信仰によらねば、中心がキリストであることは理解出来ないのです。真理は感覚や経験だけでは得られないのです。
 ところで、私はこの記事を文字通り信じますが、皆さんはいかがでしょう。なぜ科学が想定する被害が地球を襲わなかったのでしょう。それは、大きな雹がイスラエル軍を避けて、異邦人の頭にだけ直撃したことよりもずっと不思議です。しかし、私は、宇宙の中心がキリストであることを知っています。そしてその御方がなぜか私を選び、信じた者のただ中に住まわれるということをも知っています。とするならば、生ける神の神殿となり、神の子どもとなった信者ひとりひとりもまた宇宙の中心となり得るわけで、ヨシュアの願いが神のみこころと重なるとき、いかなることでも起こり得ると見るのです。こんな馬鹿げた話は「信じること以外」出来ません。

 月や星は拝む対象ではありません。単なる被造物です。初めから太陽も月も地球のために作られたのだと創世記は言っています。(創世記1:14~18)
 また、あらゆる星々の栄光は、肉や種のように、新創造である復活のいのちの多様性を表すモデルに過ぎません。(Ⅰコリント15:41)
 このような正しい知識が、見かけ上の判断を越える判断をもたらすのです。これが信仰です。物理学や天文学の知見を越える真理が聖書のことばにはあるのです。

 そして、もうひとつのポイントですが、ヨシュアがこのことを願ったのは、彼らの守護神である太陽や月の偶像に対する敵意と怒りからだったことは間違いありません。「太陽と月が主の力によって止められる」ということに強いメッセージがあります。アモリ人が頼りとする太陽と月が動きをとめたために、アモリ人が逃げも隠れもできずに討たれていくということは、天地の創造主である神が異教の神々に勝利するというストーリーになっているのです。モーセがパロの目の前で、エジプトの母なる川ナイルの水を血に変えたり、エジプト人の神々のひとつであるカエルによって災厄を起したり奇跡を思い出してみてください。
 また、アモリ人すなわちカナンの住民の罪深さは、恐らくこの偶像礼拝と無関係ではなかったはずです。そしてそこから来る主への侮りや不道徳を重ねていったのでしょう。
「彼らの心をかたくなにし、イスラエルを迎えて戦わせたのは、主から出たことであり、それは主が彼らを容赦なく聖絶するためであった。まさに、主がモーセに命じたとおりに彼らを一掃するためであった。」(ヨシュア11:21)と書かれています。
 エジプトでパロがかたくなになったように、カナンの人々が裁かれること自体がすべて主の計画の中にあったことを覚えておきたいと思います。
 それにしても、私たちと同じ人間のことばによって、太陽や月の動きが影響を受けたという事実は物凄いことです。私たちはそれが確かに起こり得たことだと信じることは出来ますが、今、私の身に降りかかるさまざまな事柄の中で、その何万分の一の小さな奇跡さえ期待することが出来ないほど、不信仰である場合が少なくありません。
 それは私たちの「勝手な願いだから」でしょうか。「気ままな望みだから」でしょうか。
 だとすれば、私たちが日常強く願うこと、望むことが、どうして主のみこころとかけ離れているのでしょう。 私たちは、日々目の前でおこる出来事に一喜一憂し、様々なことばに騙し騙されて生きています。ヨシュアは、地球の自転を止めましたが、同時に、臭い田舎芝居に騙されて、結ばなくてもいい盟約を結んでしまいました。ある時は、主によって大仕事を成しますが、またある時は主に伺いを立てることなく、自分でやりくりして失敗します。
 
 ヨシュアは、私たちと全く同じ人間です。
「彼らを恐れてはならない。わたしは彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうちひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はない」(ヨシュア10:8)
 ヨシュア記には、「強くあれ」「雄々しくあれ」「恐れてはならない」という励ましがたくさん出て来ます。私たちは、弱く、女々しく、恐れる者であるからです。主がともにいてくださるのに、その約束を忘れる者です。主の助けがなければ何も出来ないくせに、すぐに主から目を離し、自分で判断出来ないのに、主に伺いを立てずに行動してしまいます。しかし、そんなヨシュアが、キリストのモデルとしてカナンの地で連戦連勝していくわけです。

 最後にダビデの詩編からみことばを分かち合います。
 「私たちの主、主よ。
  あなたの御名は全地にわたり、
  何と力強いことでしょう。
  あなたはご威光を天に置かれました、
  あなたは幼子と乳飲み子の口によって、
  力を打ち立てました。
それは敵対する者のため、
敵と復讐する者をしずめるためでした。

あなたの指のわざである天を見、
月や星を見ますのに、
人とは何者なのでしょう。
あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは」(詩編8:1~4)
by cozyedge | 2010-07-26 23:21 | message

使徒の働きは今も続いています。


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